善裕宮に着けば、志遠が心の準備をする間もないまますぐさま雪妃が現れ、昨日だったかしら? その未明からあなたの所の九垓が急に腹を壊していると聞きましたが……と心配された。
「大丈夫ですよ、あれは贅沢品に慣れていない為に起きたものなので、私が作り出した効き目抜群な薬を飲ませておきました」
「そう」
それなら安心ね、と彼女は朗らかに笑う。
とても平穏としている。
ここに本当にそれがあるのかと言いたくなるほどだ。
「あら、あなた……」
そう言った雪妃の目に入った春鈴は明らかに苦そうな不味そうな顔をした。
この前の時のやつを思い出したのだろうか、あれとは違う物なのだが今度作る時はそのような顔をさせないようにしてやる! という気持ちにさせてくれた所で志遠はハッとした。
この思いをあの雪妃様に悟られただろうか。
「くすっ、それであなた、そちらの方は?」
悟られたぁー! 絶対にそうだと言えないが、ああやはり九垓の方が良かったかもしれない――という気持ちは一旦心の奥底に置いておき、志遠は平静を装いそれに答える。
「これは私の所の宮女、春鈴です。今日お伺いしたのはこの宮女が持って来た噂話の真偽を確かめる為です」
「それは先ほど、あなたが来る前に読んだ物で知りましたが、本当にそのような物がここにあるのですか?」
「分かりません。だからこそ、ここもくまなく探させてほしいのです」
「あなたが直々にそうおっしゃるのなら構いません」
思いの外、淡々と進む。
つまり、自分と同じ思いなのだろう、この人も。
「では、夜の間も探させてもらってよろしいですね?」
「ええ、構いません。もう陛下はいらっしゃらないもの」
そんな悲しい事をこの人の口から聞くなんて思わなかった。
次に何を言えば良いのか少し悩んでいると春鈴が口を開いた。
「あの、では、その前にお出しされたお茶をお飲みしてもよろしいですか?」
「ええ、構いませんが?」
こいつ――、ごくっと無礼な事をした。
美味しい……とも言わない。
志遠の為に出されたそれが蓮茶だと知っていたのかもしれない。
けれど、初めて飲む味に言葉もなしか、それともこれには毒があったりするのだろうか。
急に心配になるとゴクッと雪妃も目の前で同じ物を飲む。
それは目の前で茶葉から淹れられた物だから安心しなさいという言葉なき配慮なのだろう。
「では、お探し下さい。何かありましたら、私に声を掛けて下さい。それとあなた、志遠とおっしゃいましたか? あなたは少しこちらに残って」
え? とも言えなかった。
「大丈夫です、うちの宮女もあなたの所の宮女と同じように探すのを手伝えますよ。何かあったら私が責任を持ちます。その覚悟ならあります」
「それは……」
だから、あなたは残りなさい――ということなのだ。
この人は解ってずっと『あなた』を使っていた。あの読んだという物にはすでに自分が『志遠』であると記してあったのにそれをずっとそう言い続けたこの人に何を言われるのだろう。
自分の本当の正体も知っているこの人に、陛下を寄越せと言われるのだろうか。
困ったと思えば、微かに春鈴がこちらを見て、すぐに善裕宮の宮女に連れて行かれた。
ここには倒流香炉はないが、他に気になる事でもあるのだろうか。
強いて言えば、飲みかけの蓮茶が気になるとかだろうか。
そう考えていると二人きりになったのを良いことに雪妃が堂々と話し掛けて来た。
「お久しぶりですね、元気でしたか? 永華殿」
「そう呼ぶのはよして下さい。雪妃様」
「じゃあ、本当に『志遠』で良いのね?」
「ええ、もう慣れましたよ。さすがに」
「そう、じゃあ、そのような口の利き方では誰かに勘付かれてしまうわよ」
「それはあなたがそう言うからです」
「人のせいにして、昔に戻ったみたいね?」
「そうですか? この通りですよ」
「それはあなたのせい? それとも」
その先を言わせない為に志遠は言った。
「何か今の俺のように変わった事はありませんか?」
「あら……、そうね、宦官様ではないあなたに言えるのは一つ。最近一人、下女の子が増えたのよ」
「どうしてですか?」
「何でも病気の母が気になるとか言う子が突然いてね、代わりに入って来たのよ。運良くだったけど、人が少なくなるよりは良いでしょう」
「そうですね、それは旭も知っているのですか?」
「ええ、知っていると思うわ。誰かいないかしらと相談もしたし」
「そうですか……」
「ねえ、あなた」
「何です?」
「本当にあの宮女ちゃんを連れて来たのは何の為だったの?」
こそっと他の話の時とは違い、小声にしてでも聞いて来る所を見ると何かありそうだと思っているのか。
「それは言った通り、探させる為です。あの者が一番分かっている気がするからです」
「他にないのかしら?」
「ないです」
「そうかしら? あんまりというか今まで一度もそんな女性を私に紹介するなんてことがなかったのに突然そうして来て、まあ、私もあなたの姉代わりのような存在だもの、そうしたくなってしまったってことかしら?」
「急に解釈を捻じ曲げないでください! 兄上に聞かれたらどうするのです?!」
「大丈夫よ、そんなに必死にならなくても、あの方はもう来ないわ……。だって、ここには悲しい思い出しか残ってないもの」
そう言う雪妃の目は虚ろだった。