その日の夜、もう寝るか……と志遠が思っていた所、ふいに姿を現したのは九垓だった。
少し疲れているような気がするし、腹の方も少し出ている気がするが、また歩き回るとなればすぐにそれも引っ込むだろう。
「ご苦労だったな、九垓」
「ええ、まあ、たらふく食べて来ましたよ。春鈴ならそれは喜ぶでしょうというくらいには」
「そうか。それで何もなかったようだが?」
「そうですね、今まで妃達がいろいろ食べて来た物は何も害がなかったと証明ができましたし、それを出した者達も救われるでしょう」
「そうか、それは良かった。お前と深潭の腹の心配はしなくて良さそうだな」
「ええ。まあ、女に食べさせないでどうする? という話もありましたが、あなたの力でそれを抑えたのは女性受けを良くする為ですか? と軽はずみに口走った結果ですけどね」
「それが余分なんだ」
「で、何かありましたか? 書き物をするなんて珍しい」
「兄上より私はする」
詫び入れることもなさそうな口振りに志遠は少しはムスッとしたかもしれないがそれほど気にせず言う。
「春鈴が言って来た、あの金の卵の時にちらっと聞いた倒流香炉が善裕宮にあるらしい」
「それは雪妃様の身が危ないということですか?」
「どうだろうな、その話は聞いていないから大丈夫だろうが」
「……あ~なるほど、その雪妃様にお会いしたくないということですか?」
「何故?」
「だって、雪妃様は」
「兄上の癒しだった人だ。それ故、こちらの身分だって誰よりも知っている」
「そんな方が今のあなたを見たら、お嘆きになるかもしれませんね」
「心にもないことを」
志遠の筆が止まった。
「これを旭に」
「雪妃様にではなかったのですね」
「ああ、そのような倒流香炉が他にもないか探させておく」
「それは隠密にということですか?」
「ああ、隠されては困るからな。その為に最初は春鈴を連れて行こうとしていた」
「何故、春鈴なんです?」
「あいつが一番知ってそうだからな」
「そうでしょうか? 食べ物に関してならそうでしょうけど」
それはお前も認める所かと思い、志遠は少し満足した。
それこそが狙い目だった。
皆、あいつが行く所そうだと思い込むだろう。
だから良い目くらましになる。
その対策だ。
間違ってもそのような事はあってはならない。
「だが、お前を連れて行く方が良いだろうな……。妃もいないのに宦官が宮女と行くというのは何ともおかしい。まるで雪妃様に仕えに行くようだ」
「そうでしょうか?」
「そうじゃないとすると春鈴を連れて行くべきか……」
思い悩み始めた志遠に九垓は言う。
「そのお顔だと私よりも春鈴の方が良さそうですね」
どういう事だ? と志遠は顔を上げた。
「あなたのお好きになさったら良いのに」
「そうだが……」
「大丈夫でしょう、私のように皆思いますよ」
その言葉を信じて、志遠は春鈴を連れて行くことにした。
確かに九垓よりも春鈴の方がその話に通じている気がしたし、あの雪妃様に春鈴を会わせるかもしれないと思うと少し誇らしい気になるのは何故か――。
「では、雪妃様はいつが良いか聞かなくてはな。こちらはいつでも良いとして」
言葉にして言う主を見ると何とも言えない気持ちになった。
そんなにまで春鈴が良いのだろうか、分からないがその分自分はそれ以外の事をやろうと思い、九垓は部屋を出た。
まずは夜からではなく、昼に行くという。
そうして、昼の時はこう、夜の時はこうという違いを見ようというのだ。
(真面目熱心な方だ……)
そんなぼやきも届くことはないだろうと九垓は一人歩く。
夜はまだ始まったばかり、かさこそその辺を歩く者はいないし、この宮にはない気がした。
これを旭に……と言ったが、この宮だってその対象になる。
それを思うと渡す前にあるかどうか調べるか……と思えて来るが、ここにないという確信を持っているからそうしているのだと思い、それはやめようと九垓は心を改め、自分の部屋に戻った。
明日朝一番で良いと言われているからのんきにしていられたのかもしれない。
翌日の次の日には陛下の耳に入れないようにして、それが実行され、志遠も春鈴を連れ、善裕宮に赴いた。