朝方、もう出掛ける直前だった志遠の部屋にやって来た九垓は少しふてくされた顔をしていた。
昨日の寝る前に言った一言がいけなかったのだろう。
「何だ? 用があるから行くだけだ」
「ですが、余暉にでしょう?」
何故そんなに拗ねるのか不思議なくらいだ。お前は俺の女ではないし、そうならとっととこの部屋から追い出している。
「一々お前の許可が必要ではあるまい」
「そうですが……」
「すぐに戻って来るさ」
「なら、安心です――とはとても言えません。お分かりですか? 志遠様、いえ! 永華様! 事は大きくなりつつあります! あなたのなさった事は大して広まず、あの食欲あり過ぎる宮女の歯が良くないことになって頬が腫れ、それを見てもらう為にあなたの手がそこにあったとか言われているんですよ? そんな話より! と今はあのお二方の方が目立ってしまっている。誰かが聞いたそうです。いかがわしい声が外に漏れていたと。陛下はいらっしゃらないのにその練習か? と、覗こうにもそこは」
「九垓」
「申し訳ありません」
ぴしゃりと言って志遠はその話を止めた。確かな事だったと証言はあるが当の本人はそれを夢のような話風に言うから決定打にならずにいる。困ったものだ。
違う話をするようにと目で促せば九垓は口を開く。
「先日、言われた通りに華美なる物についても調べましたが、その通りでした」
「そうか、やはりな……」
「それなのにお外に出るとは!」
「もう私にはどうしようもない所まで来ている。それにずっとこの後宮に居てはいけないだろう。外の仕事はここ最近ろくにやっていない。それを咎められる事はないが、不思議に思っている者達は少なからずいるだろう。その為の顔出しだと思えば良い」
そうは言っても九垓の顔は晴れない。
「お前に私の何かを押し付ける気はない。ただそれについて調べていると知られたくないのだ。だからお前に頼む」
「それは分かっております。その為に私はおります」
「なら、今日だけは見逃してくれ」
「それは……分かりました。今日だけは何も言いません」
「ありがとう」
すんなり引き下がったのは志遠の心がほんの少しだけ九垓に伝わったからだろう。
何事もありませんようにと思うことは思ったが、それは自分の事ではないと素知らぬふりをすることにした。
ここの所、逃げたいと思うことが多くなった。
後宮がこういう所だというのは知っている。
けれど、それよりも自分の役目をしないのが許せないのだ。
だから、今、その態度を取る兄上が嫌だ。
こうなった理由も知ってはいるが、原因が分からない。
その謎を解きたいのも本当だが、それよりも今は春鈴だった。
春鈴がずっとここの所、気になっている。
すぐに分かることなのにそれを知らせてくれないのは何か理由があるのだろうか。
ふと気付けば、永庭宮を出る所に春鈴が掃除をするかのように居た。
でもその手は動いてはいない。
志遠が一人通り過ぎようとした時、彼女の口がおもむろに開いた。
「お土産は甘い物が良いです」
「うん?」
それはどういう意味だ? と訝しげに見やる。
「外に行くのは何か訳があるからですか?」
「なかったらダメなのか」
「書庫でお探しになっていたのは月夜の蓮摘みの事なのでしょう?」
「ああ、そうだ」
あれに何か抜け道がないかと探していた。だけれど、なかった。
あまり深く知りもしないのに陛下に報告したのもできるだけ早い段階であの二人を離し、それ以上の関係に発展しないようにしたかったからだが、上手くは行かなかった。
「過去の誤ちの事をお前は知っているのか?」
「そんなに深くは知りませんが、書いてある事でしたら分かります」
「それで、お前はどうした方が良いと思う?」
「私の考えでは満足できませんよ。だって、私はその過去の事と一緒になって考えることはできないからです」
その意図を知りたい。
「全ては男が入る隙がなかったからか」
「いいえ、そうでなくてもそうなる時はありましょう。でも、九垓さんならきっと『その愛を頂戴できなかったのですから自身のせいです』と言うのでしょうね」
「厳しいな、アイツは」
「では、志遠様がお与えになりますか?」
「いや、それはないだろう」
「そうですか……」
何故か残念そうに言われた。
「私は行く。お前はちゃんとやるべき事をしろよ?」
「分かっておりますよ。ただ、あなたが思い詰めなければ良いのに……とは思います」
「どういう意味だ?」
「自分の近しい存在が悩みの種になることはありましょう? そういう可能性について言っているのです」
言っている意味がよく分からなかったが、ここで時間を潰すことも出来ず、志遠はそこを離れた。
しばらくすると緑妃が一人で居るのが見えた。
何故こんな所にと思えど、その顔は随分すっきりしている。
何の悩みもないくらいに――、近寄った志遠に緑妃がすぐ気付いた。
「あら?」
「初めてではありませんが、改めて、私は宦官の志遠でございます」
「まあ!」
その後に続く言葉はお止めになってくださいまし! だろう。それを遮り、志遠は言う。
「あなたに問いたい事がある」
「何でしょう?」
「あの明明という者に花を送るとしたら、あなたは何を送りますか?」
少しきょとんとして考える。
「そうですね……無くなった蓮よりもここにはもうない百合でしょうか」
「他には送らないのですか?」
「ええ、あの子の幸せを一番に願います」
それは素直な答えだった。
だから、今から自分が行く所にも意味はあるだろう。
気が変わった志遠は道順を変えた。
第一にやる事が変わっただけで永華の影は薄くなる。
今はあいつの時じゃないか……やはり、俺はつくづくあいつに何かしてやれないらしい。帰りになら、良いか――と思って歩き出す。
外に出るとすぐに人にぶつかった。
「すみません!」
と謝って来た男性は後宮向けに綺麗な布を売る商人だった。
「これはこれは、宦官様……申し訳ございません!」
萎縮する。当然だ。だが怒っている暇はない。
「別に構わない。だが、周りはちゃんと見るように」
「はい! 申し訳ございませんでした!」
と言って早足で逃げる男を永華は捕まえた。
後宮を出てしまえば志遠でいる必要はなく、本来の姿でいることが望ましいがここは宦官様としておいた方が良い。
「お前、この頃の布の売れ行きはどうだ?」
はて? という顔をしたがすぐに男は答えた。
「ええ、まあ油を売る毎日で、こうして今日もうろちょろと」
「そうか……」
やはり深刻な問題となっている。
これは後宮だけの問題ではなく、この外にいる民達にも及んでいる。
どうするかと考えながら、永華は悪かったな……と言って男を離した。
すたこらと逃げた男の後はつけずに永華は一人行きたい所に行く。
密かに雨露に隠れて護衛をしろと九垓が言ったかもしれないと思ったが、そのような感じはなく、悠々と今日を過ごせそうだ。
(見られても困るしな……)
そうして入る場所で用事を済ませ、永華はまた志遠となって後宮に戻って来た。
その顔を見るなり、安堵した顔になった九垓を見て、思わず志遠は笑ってしまった。
「何故、笑うのですか!?」
「いや、とてもおかしい顔をしていたからな、つい……」
くくくっ……と笑って、その日は終わった。