深夜というのは誰の目もない。
それは誰もが寝ているからだ。
運悪く起きている者がいたら、これは夢なんだとそう思い込ませれば良い。
パタパタと運悪く今日は足音がする。
何だ? とそちらを見れば、息の上がった二人。
「旭……」
その人はぽつりと言った。
言い慣れたその名前はとてもじゃないが信じられないという驚きと少しの悲しさが混じっているような気がした。
「どうして起きていらっしゃる?」
その現実を受け入れられないのはお互いだったのかもしれない。
「それは何だ?」
厳しい声で問うて来た。
「ご覧の通りです」
それは志遠に向かってではなく、皇帝陛下の異母弟である永華に向けてだった。
「これは……」
言葉を失うそれは現実だった。
月夜だからこそ隠されないそれは止まることを知らないものを露わにさせて、はっと気付けばその手は一緒に来ていた宮女の春鈴の両の目を隠していた。
「あの?!」
何故そんな事をするのか? お互いにそう思う。
「見てはいけないものなのです」
「だがそれは人間だ」
「はい。ですが、彼はもう終わりが見えている」
意味が分からないと永華はその目を光らせる。
「何故、その宮女の目を隠しているのです?」
「それは……」
言って良いのか悩んでいるようだった。
「今夜は月が綺麗に出ている。だから分かってしまいましたね」
「そんなの問題じゃない」
厳しい空気に押し潰されそうだ。
そこにはもう死に掛けそうなほど瘦せ細った男が一人、数多くの枝々に絡まって力なく立たされていた。
少し前まで琵琶をその辺に置いて駆け出した春鈴の後を追っていた自分が良かった。
どうしてこなっているのか志遠には理解ができなかった。
その走っている時に春鈴がどんどんと永庭宮よりも少し中側の方に向かって走り、その音が今日は風に乗り、この耳にはっきりと届きます! これは料理のする音とあの低い声です! と言う。
何だそれは? と問えば、良いから! 私は行きます! と脱兎の如く向かって行きそうな春鈴の手をやっと掴んで志遠はそこに案内しろと命じた。
はい! と元気良く返事をした春鈴が見るより先に志遠の目に映ったのは春鈴に見せたくないものだった。
だから素早くその手を離し、そのままのその手で自分より身長の低い春鈴の目をさっと後ろから隠した。
あの?! と声を出した限りではそれをまだ見ていないようで良かったと思いながら、これ以上大きく叫ばれたら面倒だからというのもあるが、その者を何と言えば良いのか正直迷った。
とても不気味で人だとは言いたくないが、そう言ったのはそうであるとはっきり分かるからだ。
もう着ている服もボロボロでどれだけここに居るのか物語っている。
気付けばその近くに重湯か何かを入れていたらしい空の器があり、これが春鈴の言う料理の匂いならそれだけ彼女の嗅覚が鋭いことを表し、何やら呻き声を発しそうな感じでその弱り切った今にも死にそうな男は口を微かに開けた。
「水か何かあげているのか?」
「ええ、死なれては困りますから」
はっきりと旭は答えた。
では何故この後宮にそのような状態の男が居るのか問いたい気持ちになった。
殺生が禁じられている後宮内で、そのままにしとくのが解せない。
いつか春鈴が言っていた言葉がよみがえる。
(隠しておきたい男の一人や二人か……)
誰が見てもそれは明らかおかしい組み合わせだった。
その枝に絡まれる男を回復させている感じは見受けられないし、このままこうしていても死が迫って来るだけだろう。
こんなものを隠していたのか? と問い詰める所から始めれば良いのか、それともお前がちょくちょく用もなさそうな後宮にやって来ていた理由はそれか? と言えば良いのか考え込む時間はなかった。
「これは何だ?」
再度、真っ直ぐに志遠は旭に問うた。
「見ての通りでございます」
旭は動じることなく言った。
「これをする理由は?」
「陛下の仰せの通りにしただけです」
旭は淀みなくそう言った。
そうか――とは到底言えない出来事だ。
「この者は?」
「あなたと同じように不思議な力を持ち、宦官にされた男です」
それはあった事実を言っただけだ。だが、それがこれの正体。
「何の拷問だ?」
「拷問ではありません。普通の事です」
「これが普通? 普通じゃないだろ!」
志遠は怒り狂う寸前の声を出した。
それでもその手は春鈴の目から離されることはなかった。
それだけ大事ということか――旭は事もなげに言う。
「お怒りになりませんように」
次の言葉を言いたくても、その意味を考えて言えなくなる。
兄上が? 何故? こんな事を――思いはまとまらない。
旭がこの者に罰を与える為にやっているのではなければ何の為にやっているのか。
尋常じゃない。
こんな地獄の手前のような事を――
自分の目も春鈴のように隠したい気持ちだったが、そうはしなかった。
そうすればこの男が消えてしまう気がしたからだ。
春鈴がそこに居たからこそ、言えたのかもしれない。
少しは冷静になって、志遠は旭にまたしても問う。
「何故、男がここに居る?」
「ああ、これを男だと認識するのはあなたや九垓、それにそこの目隠しをされたままの宮女ぐらいでしょう」
旭は誰の顔も見ずに言った。
「これはもう男ではありません。でも人の形をしているから人なのです。ここにある全ての事を
呻いていた。小さな低い声で微かに……これは死人を生き返らせたのかと問いたくなるほどに見ていて辛く、手の届く範囲にあった真っ新な紙と小筆をよぼよぼと手に取るとさらっと一言くらいの長さの文字を書いた。
「そうですね、それは困りました」
何だ? と志遠が思っていると旭はその男から志遠に目線を移した。
「波妃様がご乱心のようですよ」
「え?!」
すぐに反応したのは春鈴の方だった。
だが、志遠はそれを止めた。
「行くな! 春鈴。お前はもう清風宮の宮女ではない。永庭宮の宮女だ」
「分かっております!」
「そうですね……」
その二人の少し緊迫したようなやり取りに旭は重ねて言う。
「そうだ、あの食べ物はありがとうと言うべきでしょう」
「何の事だ?」
「志遠様がご用意させたのでしょ? いえ、九垓か。あれはあなた方の秘密を黙っている代わりにその男に食べさせました。まあ、そのままは無理なのですり潰したりなんだりはしましたがね。借りた器もこっそり返しておきましたが、それも無用と今はなった。まあ、その方がよろしいでしょう? 陛下の耳に入らないからこそ、あなた方は生きていられる」
「お前……」
志遠は苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「ああ、そんな顔をしないで下さい。そうですよ、この男はこの後宮で起こった全ての事を把握できる!」
「お前がその料理を運んだのか? だから人の仕業だと言えたのか」
「違いますよ、私ではなく違う人物です。まあ、命じたのは私ですが。あんな所にずっとあっては邪魔ですし、陛下がふらっと来られたら――とか考えなかったのですか?」
浅はかな……とは言いはしなかったがそんな顔を旭はした。
「お前が用もないのに後宮に来ていたのはこの為か?」
「ええ、そうですね。まあ、志遠様のお顔を拝見するのも私の仕事ですので、ついでです」
はっきりとそう言い、詫びることもしない。
「陛下はこの事をご存知だと言うんだな?」
「はい、当然。ですが、聞いて損をする事は言うなと申されていて、その選別は私がしております。あなたには言っていませんでしたが、陛下はあなたのような不思議なものに本当は興味がおありでして、そういうものを近くに置き、こうして利用できると判断すればそのようにする。彼を見ればお分かりの通り、もう彼はここから動けない。力を使えばその対価となって彼の身体は自然に取り込まれて行くようです。彼も言っていました。もうじき自分は血に還るのだと」
それは死を表している。
「そうなっても良いと陛下はお考えなのか?」
「いいえ、その前に陛下は下すでしょう。ここではそういうものは禁止されておりますから」
そうしてまた旭は何事もなかったかのようにその場を後にしようとした。
「
「分かっている……」
だからこそ、動けない。
もし、自分がそうしてしまったら、この目を隠している春鈴でさえ危うくなるし、きっと自分の身の周りの者達は怒涛に迷うことになるだろう。
それくらいの『意』だ。
枝々が管のように彼の身体に刺さっていた。
あんなの見た事がない。
前世以前の記憶にもない。
実験でもしているのか、あの恐ろしい人は――。
それで良いと言うしかないのだと志遠には分かる。
反対をすればすぐにでも命は奪われてしまう。
どうやって隠して生きて行けるかなのだ、
「あの……そろそろ私の目を自由にさせて下さいませんか?」
「ダメだ。もう少しこのままで」
この場を離れるまでは何も見せたくない。
この場所をずっと維持するつもりか。
誰も今まで気付かなかったのか、何も報告が来ていないのが気になる。
どうやってこれを隠している?
旭が全てを引き受けているのか。
雨露はずっとそこに居た。
もしかしたら知っているのかもしれないが、その秘密を知っている者を易々と手渡すとは考えにくい。
だとすると雨露は関わっていないからくれたのか……。
「あの!」
「何だ?」
その春鈴の声で目の前まで来ていた旭に気付いた。
攻撃はして来ない。
「どうした?」
見下すことをしたかもしれない。
けれど、旭は気にしていない。それどころか志遠に礼を尽くし言った。
「どうか、救ってやって下さい!」
それは自分の命をも危険にさらすことに繋がるのに、そうする理由が何となく志遠には分かった。
それでも救う命……だが、あの者はもう――。
命の選別を一瞬で志遠はした。
永華としても言っていたのかもしれない。
どう助けてもあのように弱り切っていては回復が難しく、そこから解いてやっても助かる見込みはない。今ある知識とその技術で介抱したとしても――それについて謝る気にはなれなかった。
それはその者にとって失礼だ。
言える言葉がない。
志遠は空いていた己の片手を強く握りしめるしかなかった。
旭はそれを見て、目を伏せただけだった。
「そうですよね、虫が良すぎました。あの方のお力も借りることができない今、私は誰も救えないのだと分かってしまいます」
その嘆きに志遠は黙って耳を傾ける。
自分と血が繋がらないのに異母兄の母は今も仲良くしてくれる。
自分の母が亡くなった時もその死を一緒に悲しみ涙し、異母兄をそっちのけで世話をしてくれた。
本当に優しい人だ、あの皇太后は。
その心もあって、上手く行っている所もあるが、その息子である異母兄の陛下はその母の言うことを聞かず困り者になってしまった。
はあ……と溜め息を付けば、春鈴の口が開いた。
「あの~お言葉なのですが……」
「言葉も何も言っていないが?」
「いえ……その旭様も居なくなったことですし、口を開かせていただいているのですが、見せたくない男の方は全てが見えるという事ですよね? それはつまり、今のこの現状も見られているという事で……それはその……」
「何だ?」
「噂になったら嫌だな~と思えるものに違いませんよ? 事情を知らない方が通りかかったら」
「何?」
そこでやっと冷静になってみた。
春鈴の言う通りの事情とはつまり、あの男の姿を見せたくないということなのだが、噂にまでなる現状とは――。
「別に好き好んでこうしているわけではないと、それを見てみろ……とも言えないな。何故、旭は何もせずに行ったのか。伏せることをしていない。それはつまり……」
隠さずにいること、旭が自分に言って来た事が事実だと伝わって来る。
誰かがそれを発見してほしいという願い。
だが――。
仕方なくその手を春鈴から志遠は離した。
その指摘はごもっともで有無が言えなくなる。勘違いをされては九垓の努力も水の泡だろう。
「では、これを使ってみて下さい!」
そうして手渡された物を見れば、何かの白い布の切れ端だ。
その顔は両目を閉じている。
「どういうことだ? これは」
「それを使って私の目を見えないようにして手を引いて下されば、志遠様の御心も晴れるでしょう?」
「私の心?」
「ええ、志遠様も立派ですよ」
「どういう事だ? それは」
「いえいえ、私が盗人にならずに済んだのも志遠様のおかげです」
「盗人? もしやお前、また何か食べ物を頂戴しようとしてこの布を用意していたのか?」
「ええ、まあ……どこに何があるかは分からないじゃないですか! 用意周到こそが基本です! その布はそんな布の切れ端です!」
「堂々と言う事じゃない」
こんな会話を聞かれたら誰かに笑われそうなのに誰も笑わない。
それはどうしてか。
誰も居ないわけではないのに。
笑うほどの力がないのか、ざっと志遠はその男の姿を今一度見て口を開く。
「お前を救ってやりたいが、私にはできない。恨むのなら――」
その先は言わなくて良いと首を左右に振られた。
それは全てを解っているからこそかもしれないし、それだけの何かをする力が残ってないのかもしれない。
全てを見て、それを書く力しか残されてないのかもしれなかった。