もうじき夕刻になる。
朝から余暉に料理を作らせ、少し見たくもない事を見つつ、こうして清風宮に辿り着いてしまえば、彼女は逃げられない。
九垓が近くに居た清風宮の宮女にさらっと言えば、間もなく波妃は一人で通された客人の為の部屋に小走りにやって来てくれた。
その顔は血相を変えている。
何故、そうなるのか。
ただ九垓は波妃に会いたいと言っただけなのに。
「どうして! あなた方は、その子をどうするつもりです!」
「どうもしませんよ」
穏やかに志遠はその笑顔と共に言った。その隙に波妃はホッとしたかのようにその顔を普段の顔に戻した。
志遠は自分と九垓の間に挟まれ動けないように座らされている春鈴の顔を見ずに続ける。
「――とは言いません。私はこの宮女を永庭宮の宮女にしたくやって来たのです」
「何故?」
鋭い声を発した波妃とそのような顔をする春鈴の息遣い。
それさえ感じられれば良い。
「簡単でございますよ。あなたは犯してはいけない事を犯している。違いませんか?」
その答えは聞けなかったが、とても言葉には表わされないような複雑でもない後ろめたさと後悔、恐怖――そんなものが入り混じった顔をされてしまえば確信が持てる。
「それが答えですか」
目の前に立っている波妃にそう言うと志遠は自分と同じように春鈴を立たせ、自分の前にやるとその両肩に手を置き、波妃の目を見て問い掛けた。
「この子に教えなくてはいけない事を教えなかったでしょう?」
それは逃げを与えないものではなかった。
でも彼は『文字』とは言わなかった。
それは核心過ぎしまって、かえってその身を危険にさらすからか。
でもそれでもそれは核心そのものであるようで、波妃は一瞬で震えた。
救いようのないそれは壮絶な恐怖へと瞬く間に変わって行く。
崩れ落ちる。
それが普通だ。
泣き喚いても良いものを波妃はしなかった。
ただもう言葉が声として出ない。
それが分かれば良い。
心が無になって行くのを感じながら、春鈴の両肩の感触を味わうこともなく志遠は言う。
「それが答えです」
ここに誰かが居なくて良かったと思いながら、志遠はいつの間にか自分と同じように立っている九垓に告げた。
「では、お分かりになられたようなので春鈴を連れて行かせてもらいますね」
何ともその笑顔はニコニコでこちらが怖くなる。
「あなたは春鈴を何故、ご自分の宮の宮女にしたのですか? 食欲があり過ぎて、どこに行っても必要とされていなかった者を」
「それは……」
彼女はようやく声が出せたように喋ろうとした。だけど、できなかった。
その答えを聞きたかっただろうか。
いつも独りになってしまう志遠と周りに人が集まって来るというより、集まっている中にいる春鈴では違いが大きい。
自分から関わるか、関わらないか――。
そのくらいの差はある。
その自覚を持っているのと持っていないのでは違う。
「波妃であるあなたは春鈴を自分の慰みの為にこの宮の宮女にしたのではないですか?」
ガタガタと震え出し、舌を切っていないのにまた話をしない。
また声が出ないのか。
何を怯えているのか。
「字は読めるとも書けるとも言わなかった。ただその絵を描く。周りを注意深く見てその答えを導き出す」
そう言うと春鈴の肩が少しびくっと上に動いた。
けれどそれに構わず、志遠は言う。
「怠けてそうしているようにしか見えませんでしたが、あの時もそうだ……。ものすごく上手い絵を描く。それはあなたが字の書けない春鈴にわざと覚えさせた少なからずの救いではなかったのでしょうか? 字を覚えさせない為に。全てを教え、出来るようになってしまったら、自分の至らない所をも超えて行ってしまう恐れに気付いたから」
「どういう事です?」
そう言ったのは波妃ではなく春鈴だった。
「私は知っていました。そうすれば、きっと救われると」
「何に? 何に救われる」
その強めの厳しい声からの問いに春鈴は黙った。
それまで志遠の顔を見ていた目は下を向いた。
けれどそれは少しの間でまた顔を上げ、春鈴は食い下がって来た。
「波妃様は悪くありません! 全然です! 私に食べ物を与えてくださった! それは私が可哀想だからしたこと。字が書けないのに私を宮女の一人にして下さったのは食欲に走り過ぎて、行き場を失くした私への波妃様の情けです。志遠様にご迷惑を掛けることではありません!」
そう言う彼女の肩から志遠は手を離さなかった。それをしてしまえばこれは終わる。
だからこそ、熱が入ってしまう。
「宮女が字を書けない。その事実こそ、なくさなければいけない事だ! 宮女もその下の者でさえ、男女に関わらず皆、学はないよりある方が良い。これは今の皇帝のお考えだ。無能な者は切り捨てる。それが事実。だからこそ、恐れているのだろう?」
その声はやっと冷静を取り戻したように悲しさも入ってのものとなっていた。
この後宮は今まであった後宮とは違う。
全てが――とは言い切れないが、確実に違う。
無法地帯だ。
禁止されている事も密かに温め、表に出なければ良いと思っている者達で成り上がっている。
皇帝も夜伽を諦めてしまったと認めてはいけないのに。
「良いのです、春鈴。私はそう、私はあなたが可哀想で自分のものになったらどんなに良いかと思って、あなたに声を掛けました。それは……そこに居る宦官であるあなたの考えの通りよ。私は自分を惨めに思いたくなくて、春鈴を自分のものにしたの」
それまで言えなかった思いがすらすらと言えるのはどうしてか、彼女はここで終わらせる気か。
「大丈夫ですよ、春鈴だけではなく、他の所からも来ますから」
「でも、妃のいない宮なんですよ?! 誰がその妃になるのです!」
波妃の目は春鈴を見ていた。
「言ったでしょう? 春鈴は宮女にしたいと。それに」
「妃のいない宮ではなく、見ようとしていないからそうなのではないでしょうか。もしかしたら、身体を持たない誰かを祀っていたり……」
突然口を挟んだ春鈴に波妃はたしなめる。
「やめなさい、春鈴。そんなはずはないわ。あそこは妃のいない宮、それで良いのです」
「そうです。波妃の言う通り。それこそがここでの常識でしょう。だからこそ、妃は居なくて良い。だが、その永庭宮も手入れをしなくては朽ちてしまう。だからこそ、男だけではなく、女性の手も借りて管理したいと思っているのですよ。美的な物は女性の方があるでしょうし、花を生けたり、見映えを良くしたりするのも女性の方が長けていて良いでしょうしね……ということで、波妃であるあなたから宮女の春鈴を離したいのです。ちゃんときっちり教え込み、一人前の宮女になれば、もしかしたら、ちゃんとした侍女とかになれるかもしれない。そんな可能性だってあるのです。そうなれば、あなたの犯した事だって消えるのではないでしょうか。侍女は全てにおいて出来る者です。だからこそ、春鈴は永庭宮に来なくてはいけない。幸せになれるかどうかは自分の頑張り次第ですが――」
そう言って志遠は春鈴の肩から手を離した。
ここから先はもう分かっているだろう。
どうするのか決めるのは自分自身。
「では、私は行かなくてはなりません。救われた身をまた救う為に」
それは波妃に向けた春鈴の言葉だった。
「私は一人前になって、あなたのくれた思いに応えなくてはいけません」
どこまでも主の事を思って、行動する。
それがここに居る理由。
波妃の所から春鈴は立ち去った。
素直にさっさと荷造りを始めるので少しの間、待っていてほしいと頼み、その様子を見せてくれるのはそこでまた面倒を起こさせない為か、あの波妃はすぐに他の者に託し、その心身を気遣ってやってくれと頼んだが。
「何か気になる事でも?」
「いや……」
九垓のこそっと話に付き合う気はなかったのだが、気が紛れるからと志遠は言った。
「あの時の料理は必要だったのか?」
「ああ! そういえば、すっかり忘れていましたね。もう絶対冷めてますし、あの春鈴のような輩が食べているかも! いや、もしかしたら人間ではないものが食べていたり!」
それはあり得るな……と志遠は思った。
外には美味しい食べ物を狙う動物やら虫もいるだろう。
あの食欲あり過ぎる春鈴がそれを考えないはずがない。
それでも彼女は素直にここまでやって来て、その身と主の身まで守ったのだからすごい事だ。
「取り返しのつかない事を避けたかった――と言ったら、怒りますか?」
いきなり正直な九垓の言葉に志遠は言葉が詰まった。
自身も波妃と同じように『主』だ。
それは何とも分が悪い。それでは自分の為と言っているようなものだ。
「はぁ、分かった。では、これから総仕上げと行こう」
手に持てる量の荷物に驚きつつ、志遠は別れの挨拶をしたいとは言わなかった春鈴を連れ、九垓を旭の所へやり、早急に永庭宮に雨露を寄越せと頼むことにし、すぐにでも一人寄越してくれそうな紫楽宮へと赴いた。