鍋を振るう音、早さのある高めのカンカンカンカン! それに続くはゆっくりめのスッスッ……といういつか聞いた時のように軽やかで規則正しく、良い匂いをそこから発している。
腕は鈍っていない。
病気をして治ったは良いが戻るに戻れず、このようになってしまったのは彼自身のせいだが、彼は今では志遠に従順な宦官だ。
良い拾いものをしたとは思わないが、彼は九垓が不在となったあの場所を守る立場にあるのにこうして志遠からの頼みでは断れないからと訪れてくれた。
「余暉、悪いな」
「いいえ、そんなことはございません」
がたいの良さから出た太い声に怖さはなく、それだけ言うと次々に黙々と九垓から頼まれた通りの料理を作って行く。
さて、これで彼女は気付くかどうか……良くない考えは
ここは清風宮から遠く、志遠の目に近い何もない所の一角だ。
外でやるのか? と余暉に言われたが、誰も居ないのだから迷惑は掛からないだろ? と九垓はそこに用意した台の上に続々と余暉が作った料理を並べて行く。
「どうしてこんな物があるんだ?」
と不思議そうな余暉に九垓は笑うだけで良いから良いから……と言い、あ! そうだ――とある物を追加で頼んだ。
「本当にこれで釣れるのか?」
「ああ、もちろん! あのお嬢さんは生粋の食べ物好き。ここに前のあの方がおられたら舞い上がって嬉しがっていたに違いないよ」
「また、そう言って……。あのお方とはあのお方か? 永華様の……」
「しっ、その名は伏せろ!」
いつもとは打って変わって厳しい口調になった九垓に余暉は黙った。
こういつも立派でいてくれると嬉しいのだが、そんなぴしゃりと言い放った後にはもういつも通りの九垓に戻っていた。
「さて、これで準備は完璧。いつでもおいで、お嬢ちゃん」
不敵な笑み。
これがなかったら、あの方だって自分の所に居させようと思ったかもしれないのに……。先帝よりも志遠様の名の方が大事でそれが見て取れるように今やろうとしている事は滑稽でもそうとなれば話は別、ちゃんとやりますからね! というのが彼の良い所か。
「じゃあ、用事は済んだろうし、オレは戻る。どうせ何も起きやしてないがな」
「そうだろう! だから呼んだんだ!」
「志遠様がお呼びになったからオレは来たんだ。にしても、このコレは……その宮女が知ってる物か? 巷では最近流行っているが」
「心配するな! 彼女は絶対コレを知っている! 断言出来る! 何故なら、彼女は自分の持ち場でもないのにそういう情報が容易く手に入る所にもうろうろしているからな!」
でかでかと言えた話じゃないが、コレを作れるのは今の後宮で余暉の他にいなかった。彼はそういう所に出て行き、食材を仕入れつつ、その料理の作り方まで手に入れる。それこそが料理人であり、知識が豊富で頼れる所にも繋がっている。
「そういえば……」
と九垓に余暉は話した。
何てことないそれは物陰から様子を静かに見守っていた志遠の耳にも届き、心臓が少し早くなった。それは本当か? と問いたいが今は出るに出られない。
ここは志遠の居ない場所、だからこそこうして二人の宦官はきびきびしていないのだし、そういう情報も手に入るのだ。
二人の話は続くが志遠の心には
しばらく掛かるだろか……。その間に銘朗宮に行くか……旭に会い、あの卵を預かり……そもそも春鈴が居なくとも余暉が居れば何とかなったのではないだろうか? と思えた頃。
どこからその匂いを辿って来たのか、ふらふらとやって来たあの宮女、春鈴が現れた。
一層、志遠は物陰に隠れ、その様子を窺う。
「これはこれは何でしょう!? 嗅いだことのない良い匂いがします!」
「そうです、お嬢さん。これこそが今、巷で流行っている『黄金の炒飯』でっす!」
言うか早いか春鈴がバッとそれに手を付けようとした時、九垓も負けじとその山盛りの黄金の炒飯なる物を自分の頭上にやる。
春鈴よりも九垓の方が高いから、容易くそれに触れられない春鈴の手は九垓の胸元をポンポンする。
「あ~こらこら、ダメですよ」
「いじわるです! この人! いじわるしてます!!」
誰も周りにいないのに今にも泣きそうになって喚く春鈴を見て、にやっと笑う九垓を見ているとどうしてだろう、人のイチャイチャを見せつけられているような気分になって、とても嫌だった。
そんな事はない二人なのに――。
だが、見てしまう志遠はその先にあるものを見届ける為、己の沸々としたその感情を名にする前に押し留めてその二人を見やる。
「では、問題です。それに答えられたらこれを差し上げます」
「え? 本当ですか!」
とても簡単に言いくるめられて、春鈴はもう機嫌が良くなっていた。
「はい、じゃあ、ちょっとそこにある地面のそう、それを拾って読んでみてください。もしくは書いてくれてもかまいませんよ、その答えを」
「これは……」
両手が塞がれ、地面に置いてあったその紙を持つことができない九垓は春鈴に頼む。
「とても……」
ちらっと春鈴が見たのはその近くにあったあの綺麗に九垓が並べていた料理達。
そしてそこからまだ九垓の頭上にある食べ物に移った。
お腹が鳴りそうだ……と言わんばかりの春鈴の顔を見ると、その答えを言ってやりたい気持ちになったが志遠は黙って見ていた。
「ああ! その答えが正解なら、その台の上にある物もご自由に食べていただいて良いですよ。手掛かりです」
ニコッと言う所、春鈴はその紙を拾って開き、何やら黒字の物をざっと見て、のろのろでも素早くでもなく、少し悲しそうなそうでもない感じの声で言う。
「答えは『あなたは字読めますか』です。どうしてそんな事を問題に?」
「あなただって知ってはいるでしょう? これがどういう意味か」
「はい」
それしか言わない彼女に九垓は何を言うのか志遠は心した。
「正解です、どうぞお食べ下さい。それらはあなたの物です。ああ、これもですね」
良い笑顔で九垓は頭上の黄金の炒飯さえも台に並べた。
「最後の晩餐ですか?」
「そう思います?」
「こんなにご馳走……じゃなければおかしいです。私はそういう身分ではありません。何の為にそうしたのか問えば答えは出ますか?」
「こちらの答えは出ました。あなたは
「言う場所の問題ではないのですか?」
「どうしてそう自分を追い詰めるような事を言うのですか? いつものように喜んで食べれば良いじゃないですか。それこそがあなたの喜びでしょう?」
「そうですが……」
この問答は彼女を破滅に導くものか。
志遠は黙っているべきかどうするか悩んでいた。
九垓は何を思ってか、台の上に乗っている料理の名を口にする。
「アワビの蒸し物、ナツメの甘い飲み物、担々麺、ハスの実のお粥、ジギョの蒸し物、
「分かりました! 食べます! 食べさせて下さい!!」
今にも泣きそうになって、必死に食べようとする春鈴を見ていると心が痛んだ。
「もう
居ても立っても居られないとはこの事なのか……、哀れに思えて志遠は物陰からすたすたでもなく出て来てしまった。
「これは志遠様、どうなさったのです?」
「この腐ったような根性のお前に愛想が尽きただけだ」
「そんな!」
何故かその矛先を九垓に向け、志遠は春鈴を見る。
近くで見ればその表情は食べ物の事でいっぱいというよりも何故か泣きそうになっている。
「その顔は何だ?」
「いえ、泣いてはいません」
「そうだな。だが、お前の食欲あり過ぎる所が出ていない。何故だ?」
「それは……」
「嫌いな物でもあったか?」
「いいえ! そんな!」
怖さがある。その春鈴をそうさせる何か。それは――。
「清風宮に行く」
「どうして!?」
とても素早い反応に志遠だけでなく、九垓も目を見張る。
「それが、答えだろう?」
何とも悲しい結末。それが予兆された。
「だが、お前の命は保証してやろう。それにあの妃も」
それだけで春鈴は黙った。
行くぞ……と言う声も虚しく、その料理を食べさせてやりたい気持ちもあって何とも言えなくなって来る。
事が終わったら、作り直させようか……と思いつつ、重い足取りの春鈴を連れ、志遠と九垓はあの清風宮を訪れた。