志遠が自室で落ち着いて書物を読んでいると、永庭宮に戻ったと知った九垓がそわそわと早足でやって来た。
「どうした?」
「どうでした? はこちらの方です。行く前に聞いた事が心配し過ぎて、気が気ではありませんでしたよ! でも、こうして、志遠様のお命があるということはまずは安心して良いのですね?」
「ああ、まあ、そうなるな」
「良かった……」
やはり、気にしていたか。
願望絵を描いた者が悪いんじゃない。
描かせた者も悪くはない。
悪いのはこの後宮を訪れなくなった陛下の時間だ。
だから『その責任はあなたにある』と志遠は言った。
それはもちろん、恐れ多いことなのでやめてください! と九垓に言われても違うことを言う気にはなれなかった。
そもそもあの春鈴のせいにしたくなかった。
それなら、あの波妃が事の始まりだと陛下にお伝えする。
その愛をあなたはどう受け止めるか? と切に訴えていただろう。
「そのおかげで新たな問題を解かなくてはいけなくなった」
話をするりと変え、志遠は書き物の続きをする為、視線を落としつつ、九垓に続けざまに言った。
「その関係で旭の所にいた宦官の雨露をこの永庭宮に置くことにした」
「何故です?」
急に声に鋭さを持ち、仕事をする顔付きになった九垓に志遠は旭から聞いた話をした。
「――なるほど、それで来るのですか……」
「ああ、お前よりも武術に長けているし、何ならお前はその武術では私より弱い。その頭を活かす時はまだだろうから、少しお前に頼みたい事があるのだが」
「何でしょう? その宮女探しですか?」
「いや、それは私がやる。お前に任せたら、ろくなのが来そうにない」
「それは先日の事を言っています?」
願望絵の時の事が瞬時に思い出され、志遠はこくりと頷きそうになったがやめた。
「それでお前にはこの永庭宮に来ることになっている春鈴について調べてほしいんだ。出自が良いとかはもう以前にやっているのはお前も知っているだろう?」
「はい、あの皇后だった
「うん、だが私は徹底的に調べたつもりでいたようだ」
「どういうことです?」
「お前は字が読み書き出来ぬ者をどう思う?」
「そんな者がここに居たら、とっととお縄を頂戴で、斬首ではないですか?」
「そうだな。それを教えなかった者も同罪だ」
それが今の皇帝が決めた事。
怠ってはいけない学びも芸も、何かしら一つくらいは人に褒められるものを持て――。
賢さが一番求めるものであり、愚弄は要らぬ。
そうなってしまったのも自分の母のせいだろう。
だが、今は――。
「そんな者がいないと私だって思いたい。だが、お前はあの時気付いたか?」
「はい? あの時?」
聞き返す九垓を見て、志遠は思う。
「あの部屋を見て、何も思わなかったか……」
考えるようにして志遠は言う。
「お前にしか頼めない事だ。これは誰にも言ってはならぬ。私とお前だけの秘密にしてくれないか?」
「そんな大袈裟な……」
「そういうものなんだよ、これは。春鈴の部屋には文字が一つもなかった。たまたまなのかどうなのか知りたいのだ。波妃が全て用意していると春鈴は言っていた。この意味が分かるか?」
その答えを九垓は瞬時に理解した。
「はい。つまり、春鈴が文字を読み書きできない場合、どうするか? ということでしょうか? なら、
「それは……まあ、良いとして」
深く突っ込まれるのも嫌で志遠は言った。
「もし、その場合は早急に私に報告しろ」
「そして、彼女を――ですか?」
「それはしない。そんな事になればいろいろと問題になる。それに波妃が素直に応じるかも分からん。その為のものにしたいのだ」
「お命は助けると。あの宮女に全てを押し付けてもよろしいのにそうしないということは……」
それ以上考えるな! と志遠は九垓に号令をかけた。
「行け。だが決して面倒だけは起こすなよ」
「はい」
素直に応じた九垓を見て、ほっとする。
それから同時に考える。
宮女の格好で外をうろうろされては困るからな……用意させなければ。
それに……もう一度、旭に会って、あの金の卵を触らせてもらおう。
どういう物か知らなければ、
そして、もう一人の宮女は誰が良いのか考えなければ。
その為にも志遠は立ち上がり、外に出ようとした。
もう暗い。
それなのに出て行った九垓に少し悪いと思いながら、志遠は次にやるべき事を考え始めた。