思思の足が止まった。
「ここか?」
「はい」
志遠の問いに思思は答えた。
そこは静風宮だった。
四番目の位を持つ鶯妃が居るのが紫楽宮なら、その次に位置し、最下位に当たるのが静風宮の波妃だった。
その下になるのが妃のいない永庭宮になるのだが、志遠はそれを上手く利用し、皇后の居ない今、後宮で一番上の方で目立たずに活動していた。
ここにはあの宮女も居る……。
「少しお待ちください。話をして来ます」
そう言って、思思は外に出ていた一人の宮女に近付き声を掛け、また戻って来た。
「こちらでございます」
思思はとても礼儀正しく、その者の所まで案内してくれるようだ。
どこかの宮女とは大違いだ。
いや、これが普通なのだと思い直し、志遠は思思に少し問い掛けた。
「そういえば、あの絵の陛下らしき人物には顔がなかったが?」
躊躇わず、思思は答えた。
「何でも恐れ多いからだそうです。なので、描かれていないのです」
「そうか、故意か……。描かない選択か……」
これもどこかで聞いたような――。
思思は奥に入った所でまた出会った先ほどとは違う宮女にさっと軽く訳を話して、さらに奥まで行けるようにしてくれた。
「では、私はここまでです。餌があればすぐに釣れますよ」
そう言って去って行く思思に思わず、魚か? と九垓はぼそっと呟いたが、その隣に居た志遠は心当たりがあり、黙っていた。
そのままその宮女に連れられ、二人はその者が居る一室に辿り着いた。
絶対にそこに居て、それをしているのに辺りは何故か誰も居ないような感じで静かだった。
これがこの者の集中力か……。
志遠はまざまざと見せつけられ、部屋の中央にある長い机に紙を広げ、座り込み、熱心に願望絵を描き続ける姿を見ていた。
それは流れるようにすらすらと筆が動き、まるで見た事があるかのように迷いがない。
その机の端には黒い墨だけでなくそれぞれの花陶硯に色の違う物が入っており、筆も大小と色が混じらないようにかそれだけあり、その美麗さに磨きをかける色付け用の物だと分かる。
これらは全て波妃が用意した物だろう。
「男が描いたのではなかったのですね」
「ああ」
それはこれを見る前から知っていた。
九垓はその言葉からして、この後宮によく来る絵描きの爺さんでも思っていたに違いないが、志遠は違った。
その絵を見た時から、さらに腕を磨いた……と思っていた。
この絵を見るのは数回目だ。
見間違うはずがない。
あの月、そして――鶯妃とは別の願望、夜伽の仕方。
他人の願望をそのまま絵にしているのか……。
それでも言わずにはいられなかった。
「これは波妃のおかげか?」
志遠の声でやっと彼女は顔を上げた。
そして気付く。
「志遠様?!」
そして、その目はそのまま後ろに控える九垓を見る。
「こいつは宦官の九垓だ。この者より数刻前、願望絵という物がこの後宮内で流行っていると聞かされた。その絵は何だ?」
「これは……」
と言いながらも、さっと隠すようにして春鈴の手が僅かに動いた。
「春鈴、どうしてそんな事をする?」
「それは……」
口ごもる彼女に志遠は言う。
「餌があればすぐに釣れますよ――とはよく言ったものだ」
それは思思の言葉であり、この事の真理であった。