イニャスの銀の横笛による演奏はエール・スィエル・アスピラスィオンの者達が歌う歌と上手く調和されていた。
その曲はイニャスが今まで知りもしなかった曲だった。
エール・スィエル・アスピラスィオンの者達の歌声は激しく力強い流れるような音楽だった。
なら、何故イニャスがその曲を思い通りに吹けるのかといえばその『銀の横笛』自体が最初から覚えていたとしか言い様がなかった。
その曲は涸れていたものを復活させるだけの力があるようですぐにその効果が現れた。
「カスカードだ!」
誰かが驚いたように言った。その声の主の言った通りあの二つの谷にはそれぞれ一本の大きな白い滝の水が勢い良く流れ出し、落ちていた。そして、その水はこの『忘れじの湖』へと轟々と流れ込んで行く。その様子はエール・スィエル・アスピラスィオンで見るよりも大きな美しい白っぽい黄色い月が優しく静かにその谷の後ろから見守っているようにファブリスには見えた。
だが、『百の聖なる月水夜』を何回も見ている者達からすればそれは月がその曲を聞いて感動したかのようにそれまでその谷には何もなかった所から大きな滝が突如、出現し、昔の湖に戻っていったように映った。デフロット達が見ている場所からはそれが月の涙のように見えた。
「ああ、『リュヌ・ラルム』! 『涙の月』または『月の
ジェジェーヌ・クーレはワンワン! と実に久しぶりに見た感動で吠えながら言った。
イニャスはまだ吹いていた。この曲の終わりはやはりあの『忘れじの湖』が復活するまでなのであろう。
それまで響き渡る『銀の横笛』の音は『レヴリ・クレクール』達をそこに留まらせるものかもしれないとイニャスは思った。
あのニュアージュの羊のように『レヴリ・クレクール』達はイニャスに近寄ったり、遠ざかったりを繰り返していた。
それを見たデフロットは興味深そうに言った。
「さすが、音楽の才能だけはある」
「いいえ、彼には優しさもありますよ」
アデライードはもう歌っていなかった。
それは『忘れじの湖』が復活した意味だった。
「彼は知らないのですか?」
「ええ、だって『レヴリ・クレクール』達の心を感じているのだから」
アデライードはイニャスを見た。湖が復活したことにも気付いていない。イニャスには『銀の横笛』がよく似合っていた。
「あの横笛はレヴリ・クレクールの子守唄を奏でるものですか?」
「いいえ。あの横笛は……思いの強い者が月とこれから消えて行くレヴリ・クレクールと新たに生まれて来るレヴリ・クレクールのために心地よい癒しの歌を捧げるために奏でるものです。彼はそのことを知りません。でも、彼はあの曲が吹ける。楽譜のないその歌を。これは彼がレヴリ・クレクールに選ばれたからではありませんか? でも、彼はこの創世界で生きて行くことを望まないでしょう。あなたのようにはならないわ。私達と同じ『百の聖なる月水夜』の時だけ行き帰ることもできない。何故なら、彼はすぐにいなくなってしまうから」
「あなたは彼をどうしたいのですか? レヴリ・クレクールに渡したいのですか?」
「いいえ、彼の音楽の力を知りたいだけ」
「それだけなら彼にそんな思いを抱かないことだ。彼はその音楽の力を捨てようとしている。『百の聖なる月水夜』の時だけ生き返らせることも可哀相なことだ」
「でも、それを望んでほしいとも思うわ」
アデライードは小さくそう言ってから軽く首を左右に振り、一度言ってしまったことを否定した。
「彼を、イニャスを思っているからですか?」
はあ……とアデライードはあの谷の向こうにある月を見ながら上を見た。何故だろう、心の奥から流したくもない涙が溢れ出た。
「あなたは良いわね。ずっとそうやってあと数百年は生きていられるもの」
「あなたは私のそれ以上だ。それが『百の聖なる月水夜』を見守る者の役目だ。前回の時もイニャスとは違う者を好きになっていた。彼は横笛ではなく君と同じ、『声』を使い最後は……」
「もうそれ以上言わないで!」
そのアデライードの声でイニャスは最後の一つの音を吹き損ねるところだった。
「まったく、何だ?」
イニャスの演奏が何事もなく終わった事にアデライードは安心した。
「何でもないわ!」
アデライードはそう言って急いで父、ティボーと妹のエレアノールの元に戻って行った。
「もし、あの月とレヴリ・クレクールが本当に選んでいたなら彼もあの曲を吹き終わった時点でこの創世界からも現世界からも消えてしまったというのに。あの歌だけを残して」
「わん! そんな恐ろしい事を堂々と言うものではない。デフロット・カペー」
「ですが、真実だ。私も最初見た時、この創世界のお祭りはひどいと思いました」
「それはこの『リュヌ・ラルム』だけだ。それにお気に入りになれば大丈夫だ」
「『お気に入り』ですか?」
「そうだ、わん! 前の者はアデライードのために歌ってしまった。だが、イニャスは違う」
「ただ、分からずに吹いている。だから、『銀の横笛』は好き放題だ。あんな曲誰も吹けまいよ」
オーバンはイニャスの吹き終わった曲を思い出しながら言った。
真実の癒しとはああいう曲をいうのかもしれない。
ファブリスはあの聞いた事もない優しい曲を吹き終わったイニャスに駆け寄った。
「イニャス! すごいね」
「まあ、こんなもんだ」
イニャスはすごいだろ? と笑った。
セリアはデフロットとアデライードの近くで聞いていた話を決してイニャスに話さないと心の中で誓ったが少し心配してイニャスに言った。
「下手じゃなくて良かったじゃない」
「あ? 横笛だけに関しては自信があるからな!」
イニャスはやり遂げた自信でいっぱいだった。
「これであとは『百の聖なる月水夜』だけだろ? そしたら、やっと俺は現世界に戻れる」
それを聞いたファブリスは『自由な童話』のことを思い出した。
「じゃあ、僕も一緒に帰りたい。帰ってマリテの薬をもらうんだ!」
「そう、じゃあ、『百の聖なる月水夜』だけでも楽しまないとね」
そう言ってセリアは珍しくファブリスの後ろに立ち、ファブリスの両肩を優しく抱き、イニャスとエール・スィエル・アスピラスィオンの者達のおかげで復活した『忘れじの湖』の上を飛び回っているレヴリ・クレクールやたゆたうレヴリ・クレクール達を見続けた。
その数はファブリスやイニャス、セリア、デフロットさえ数え切れないほどだった。
ジェジェーヌ・クーレやオーバンもその場にいる全ての者達がその数を数えたことはないと言うほどたくさんの数がそこにはあった。
その光景は夜の闇の光と月の淡い優しい光とレヴリ・クレクール達の色とりどりの輝かしい光が相混ざって幻想的だった。水面に映るその光景はもっと幻想的だった。