「はあ、は――」
少年は走っていた。
このファルマスィ・コワンのある町から遠く離れた町に住む少年は一人で走り続けていた。
妹の目はぼくが治せるかもしれない――。
ただそれだけを願って走っていた。
少年は隣家のおばあさんから教わった街角の薬屋、『ファルマスィ・コワン』を目指していた。
そして、少年は目的地にやっと辿り着いたのだった。
「ここがおばあさんが言っていた『ファルマスィ・コワン』か」
少年はその店の扉を開けようとした。
だが、その扉は少年の予想よりも重たかった。
「何これ、見た目以上だ」
少年は力の限りその扉を開けようと必死だった。
「これを開けないと妹のマリテが」
そう言いながら扉を開けていると少しずつ、少しずつ扉が何の音も無く開いていった。
完全にその扉を開けるとどこからかベルがリーンと一つ鳴った。
その中は石を敷き詰めただけのものでカウンターがあるだけだった。
そのカウンターの奥の方からこの店の主人と思われる一人の男が現れた。
「君は何が欲しい?」
急にそんな事を言われてしまった少年は一つだけの願いをその主人にそのまま言った。
「妹の、マリテの目を治す薬が欲しいです!」
「そう。君の名は?」
この店の主人、デフロットにそう言われ、少年はそのままの勢いで言った。
「ファブリス・クレティアン! マリテの目を治す薬をください!」
デフロットはにやっと笑い、ファブリスを見つめながら言った。
「それなら僕に『自由な童話』を。それが君の求める薬の代価です」
ファブリスはきょとんとしてそれ以上しばらくは話せなくなった。
「ここに君の欲しい薬がある」
デフロットは紺色の優しい花の良い匂いのするファブリスの小指くらいの小さなガラス瓶に入った液体をファブリスに見せつけた。
「欲しいでしょう? 僕も君の『自由な童話』が欲しい」
「ぼくの知っている童話……童話ではないかもしれないけど近所のお姉さんが話していた『午後の三時のおやつの時間』っていう話なら知ってる」
「ほう、それはどんな話なのですか。話してみてください」
デフロットは大して興味を示さなかったがファブリスの話を一応、聞く事にしたようだ。
そして、ファブリスは話し出す――。
今ではパンでも昔はお菓子。
かの王妃様が言ったお菓子。
パンかお菓子か? と訊かれればわたしは『お菓子』と答えよう。
だって、お菓子が大好きなんだもん!
わたしが好きなお菓子は――そう、甘い夢がいつまでも続くような楽しい味がするの!
そして、わたしはこのお菓子達に出会うために生まれてきたの。
お菓子も好きだけど、紅茶も好き。
でも、紅茶はまだまだ知らないことばかり。
さあ、美味への追及を忘れずに探し始めましょう!
楽しい幸せな時間を作りたいから。
少女と男は楽しそうな声に足を止めた。
綺麗な色とりどりのバラに囲まれた庭に数人の少女たちがお茶をしていた。
一人の少女は永遠に話し続け、一人の少女は永遠に飲み続け、一人の少女は永遠に食べ続け、一人の少女は永遠にそれを見続ける。
ただ、それの繰り返し。
でも、彼女たちは心の中で歌っていた。
自分が信じた美味を。
麗らかな午後の三時のおやつの時間。
そこから抜け出すことは可能だろうか?
我に返った者はまた歩き出す。
少女と男のように――。
「それはどうなんでしょうね」
デフロットは話し終わったファブリスに少し困ったような顔をしてファブリスを見た。
「実はその話。似たようなものを僕はもう知っているんです。ですので、できれば違う童話を」
「それなら!」
とファブリスはデフロットに強く言った。
「ここに来る途中、旅人に聞いた『花』で良い?」
「そうですね」
デフロットが何か言う前にファブリスは勝手に話し出した――。
暗がりの中で私は見つけた。
地面に落ちていたそれを。
それは赤い。
私の血と同じ色。
私の血と同じ色をしたそれはやがては大地の一部となるだろう。
私はそれを拾い上げた。
それは腐りかけてはいたがきれいな頃を感じさせる色を持っていた。
「お前は今まで何を思って生きてきた? お前はこの木からお前ごと落とされた時、何を思った? それとも、自分の意志で落ちたのか……ふふっ、お前は何も言わない『花』なのだから」
私はまた、それを大地へと返した。
返された花はまた天からの贈り物と一緒になるのだろう。
そうして、じっくりと大地の色へと変わっていくのだ。
大地に心から受け入れてもらうために――。
「それもですね。もう、ずいぶん前から知っているのですが」
「じゃあ、とっておきのお話! 『ムスカリとレンリソウの血』これはぼくのおばさんがよくしてくれる話! ぼくのお気に入りなんだ」
「そうですか」
と言ってファブリスはまたしても自ら勝手に話し出した――。
男は冷たい一面の銀世界を歩いていた。
その銀世界は男の体力を奪い取り続ける。
それでも尚、男は歩みを止めない。
男は歩き続けた。
どこまでも、どこまでも。あるものを探して――。
彼はもうどのくらい自分が歩いたのか分からなくなっていた。
彼はただ眼と足だけを動かし続けていた。
彼は探し続けていた。
胎内で流し続け、今でも体内を流れている彼の紅の血が欲しがるそのものを。
見つけるまで彼は歩き続けるだろう。
彼が産まれ、生きている意味はただそれだけなのだから。
少女はただ見ていた。
薄汚れた男が歩いているのを。
少女の周りにはたくさんの花が咲いていた。
それはそれは美しい青の花。
見る者全てを虜にしてしまう花。
その香りを嗅げば一瞬で全ての負を忘れさせてくれる花。
少女の体内に流れているのと同じ色をした蒼い花。
少女はその花が冬に咲くのを不思議に思わなかった。
少女にはそれが当たり前だったから。
少女は男に興味を持った。
男は何かを探している。
もしかしたら、この青い蒼い花かもしれない。
少女は一輪の青い花を折ったのだった。
あの人にこの花を渡すために。
男は歩みを止めた。
彼が歩き続けて来た一面の銀世界と同じ色をした肌に藍色の瞳、太陽のように輝かしい黄金の髪を持ち、青い花を持った少女が突然彼の前に現れ、話したからだ。
「おじさんは何を探しているの? この青いお花を探しているのでしょう?」
「いいや、違う」
男はただその一言しか言わない。
少女は不思議な顔をした。
「どうして違うの? ここに来る人は皆この冬に咲く珍しい青いお花を欲しがるのに。私は不思議には思わないけれどね。だって、このお花はいつも私の周りにあるもの。春も夏も秋も。私が怪我をして流した血と同じ色をしたこのお花が私、とっても大好きなの! おじさんは何かを探しているのでしょう? 何を探しているの?」
男は少女が言った言葉を不思議に思わなかった。
普通の人間だったらその青い花を欲しがるだろう。
下界に戻れば一生暮らせる額の花だ。
男はそんなものには目もくれずに言った。
「探しているのは『お前』だ」
少女は驚いた。
「どうして? あなたは誰?」
男は少女を見つめたまま言った。
「『蒼の血』を探している『紅の血』の者だ」
少女は逃げた。
遠い昔、『母』というべき人に毎晩聞かされた話を思い出しながら――。
『いいかい? よくお聞き。『紅の血』や『蒼の血』ということを話す人がお前の前に現れたらすぐさま逃げるんだ。決して振り返ってはいけない。振り返れば最後、また歴史は繰り返す。あの恐ろしい歴史を繰り返さないためにもお前は逃げ切らなければいけない。『紅の血』に捕まってはいけない。お前は私達『蒼の血』を受け継ぐ者の未来なのだからね』
少女を追いかける男。
少女が逃げ切ることはできない。
歴史が繰り返されるのは定めだったのだろうか。
それとも、『紅の血』と『蒼の血』が生まれた時の呪いなのだろうか。
男はついに少女の中に流れている最後の『蒼の血』を手に入れたのだった。
少女は男に捕まった瞬間、殺されると思ったが殺されはしなかった。
それどころか男は少女の頬を撫でた。
「美しい娘だ。お前の一族は今、全て『紅の血』のものになったのだ。お前の生きている証はその花しかない。今まではその花がお前を守ってくれていたが私には効かない。何故だか分かるか? 私はお前の中に流れている『蒼の血』に相反するものを持っているからだ。それは何かお前に分かるか? それは『紅の血』だ。お前たち『蒼の血』の祖、フレイアが唯一憎んだものだからだ」
そう言って男は少女をその地から攫って行ったのだった。
少女は攫われて行く。
けれど、それを止める者はいなかった。
誰も何もない所だったから。
しばらくすれば、あの青い花もなくなるだろう。
少女がいたからこそ咲き続けたのだ。
しかし、その花は枯れはしても絶滅はしない。
また、少女の傍で咲くだろう。
赤い花と一緒に。
男は少女の名前を尋ねた。
だが、少女は頭を横に振った。
男は少女に名を与えた。
少女は『スクルド』と名付けられた。
名を与えてくれた男をスクルドはよく見た。
男は深い茶の瞳、赤茶の髪を持ち、おじさんというにはまだ若い青年だった。
「あの・・・『おじさん』と言ってしまってごめんなさい」
男は笑った。
「連れ去って行く者にお前は謝るのか?」
スクルドは男の名前を知りたくなった。
「お名前訊いてもいい?」
男はスクルドを抱えたまま言った。
「『オデル』だ」
『紅の血』と『蒼の血』は共に歩き出す。
永遠の幸せを求めて。
斯くして、物語は動き始めたのである――。
長編を話し終えたファブリスはデフロットに疲れながら訊いた。
「まだ、続き、あるけど話したほうが」
「いえ、もう結構です。その童話僕が知っている『紅と蒼の血』にそっくりだ。たぶんというより登場人物達の名前も違いますが内容は全く同じなのを僕は全部知っています。何だか無駄な時間を使わせてしまって申し訳ないのですがもっと別の童話はないのですか? もっと楽しい子供らしい童話が良いのですが」
ファブリスはデフロットのその言葉を聞いてその場に座り込んでしまった。
それを見てデフロットは言った。
「気分転換にそこの扉からこれを持って外に出てみては如何です?」
デフロットはもうこれ以上ファブリスが童話を語れない、創れない事を悟り、代わりに淡い桃色の火が付いたランタンをどこからか持って来てファブリスに差し出した。
そして、ファブリスが知らぬ間に出来たらしい扉を指差した。
その扉は今まで壁だった所に妖精や自然の森、花の絵が描かれていた。
「きっと僕の求める『自由な童話』を探せると思うのですが。それが嫌ならばこの薬は」
「行く!」
それを聞いたファブリスは即座にそう答えた。
「これを持って行けば良いんだろ?」
「そうです。無事のお帰りを待ってますね」
そう言われてファブリスはデフロットが持って来たランタンを持ち、立ち上がった。
「ああ、その僕が渡したランタンを絶対になくさないでくださいね。僕のお気に入りの一つですから」
デフロットはそうファブリスに言い終わるとその扉をキーと音を立てて開けた。
そして、ファブリスはランタンと一緒にデフロットが開けてくれたその扉の外へと出たのであった。