「……優姫」
「誤魔化さなくても良いよ。自分の身体なんだ、どんな状態なのかくらい分かってる。けれど、それでもボクは生きてる。身体は不自由でも『心』は生きたまま、皆の元に戻って帰って来られたんだから……それで十分だよ」
ボクは自嘲気味に笑った。
覚悟はしていた結果だ。あの場で即死せず、皆の元へ帰って来られただけでもボクは『賭け』に勝ったのだ。
「……すまない。病院に運ばれた時にはもう遅くて……これが最善の処置だったんだ」
父さんが頭を深々と下げる。父さんは何も悪くなんてないのに。
どうやらボクが転落した時、糸田より早く現場に駆け付けた人が救急車を呼んでくれたらしい。仮に糸田が最初に駆けつけていて、逃走に失敗していたら……ボクは舌を噛み切って死ぬつもりだった。
けれど、ボクは『賭け』に勝った。だから『人間』として、家族の元へ帰って来られた。
「……良いんだ、こうして身体の自由は失ったけれど、家族の元へ帰って来られたんだ。それがボクにとって1番の幸せだよ。父さん、母さん、兄さん」
「優姫……」
ボクの笑顔を見て、兄さんは目を背ける。
兄さんも分かっているんだ。3年前のボクはもういないのだと。
「……あ、安心して優姫! あの糸田とかいう男は捕まったわ! きっと死刑になるはず! ううん、死刑にならなくても、母さんが必ずこの手で殺してあげるから!」
そんな暗い空気の中、母さんが声を荒げて言う。
母さんもあんなに綺麗な人だったのに、今では見る影もないくらいに疲れ切ってしまっている。
けれど、こうなってしまったのも全てボクのせいだと思うと、本当に申し訳ない。
「嫌だなぁ、母さん。そんな血眼にならないで。糸田……犯人の事なんてもうどうでも良いよ。今は……ただ、元の生活を取り戻したい」
「優姫……」
「糸田は言っていたよ、少女を誘拐するのはボクが初めてじゃなかったって。今までも数人を攫って、自らの玩具にしてきたと。けれど、糸田は裁かれる事もなくのうのうと生きている。それは何故か? それは糸田の父親が有力な議員で、金と権力を存分に使って都合の悪い事は全て揉み消してきたから。それに加えて本人の精神疾患もあって、法的に裁かれる事は無かったんだ」
糸田は複数の精神疾患を患っていた。本人も自覚はあったらしいが、幼い頃から適切な処置をせず、甘やかされて育った事から現在の人格が出来上がってしまったらしい。だから、自分は無罪だ、悪いとすれば僕の疾患と環境だ……糸田は悪びれる事もなくそう言っていた。
だから、いくら残酷な事をしたとしても、それは自分の意志ではなく、疾患によるものだから仕方ない……それが糸田の口癖だった。
「けれど、母さんは絶対に許さない……優姫をこんな目に遭わせた男を許せない……絶対に、絶対に殺す」
それでも、母さんは引き下がらない。
もう、その気持ちだけで十分だった。これ以上、ボクの事で家族を苦しませたくない。
もう、糸田という男にこれ以上人生を狂わされたくない……それがボクの本心だった。
「ボクが誘拐されてから3年。父さんと母さんは仕事を殆ど廃業してまでボクの捜索をしてくれていたんでしょ? だから、もう今日で終わりにしよう。糸田を憎んで、殺す為に皆の人生をこれ以上浪費するなんて……ボクが嫌なんだ」
「そんな……」
「父さんと母さんがずっと裁判で戦い続けて、糸田と向き合い続ける姿なんて見たくない。きっと、糸田の父からお金はそれなりに受け取れるはず。だから、もうお金を受け取ったら事件の事は忘れて欲しい。事件をわざわざ表に出す事もしないで、ボクたちの中でこの事件は終わらせて欲しい……」
家族を巻き込みたくないのは本心だったけれど、それ以上に普通の人間として生活がしたかった。
もし事件が公にされれば、糸田は社会的制裁を受ける。けれど、同時にボクとボクの家族は世間の好奇の目に晒される。そうすれば、もう元の生活に戻る事は難しいだろう。そんな事になるくらいなら、もうこの事件は闇に葬って欲しい。
「そんな……っ、私は、私は犯人を許す事なんて!」
「許さなくても良い。ただ、忘れて欲しい。そしてボクが元の生活に戻れるよう手助けして欲しい……これ以上、糸田に振り回されるのは嫌なんだ……」
ボクは無意識の内に涙を流していた。
糸田に虐待される事なんかより、家族や元の生活を壊される事の方が余程辛い。
「そんなっ、そんな……っ! 優姫!」
けれど、母さんは納得がいかないみたいでその場で叫びながら暴れ出した。飾られていた花瓶を叩き割り、泣き叫ぶ。
「落ち着け、由美子! 優姫が望んでいる事だ、事件を公にすることは避けよう。被害者が晒されて生き辛くなるなんて、本末転倒じゃないか」
そして、母さんは父さんに連れられて病室の外へ出た。