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第44話 奇跡

【7月26日 訪問:倉田 和彦】


 杏奈はひどく衰弱していた。肉体的にも、精神的にもだ。

 虚ろな目の下にはひどいクマが出来ていて、顔色もとても悪い。俺の知っている元気な女の子はそこにはいなかった。


「和彦……くん、なんで」

「いいから!」

 俺は掴んだ杏奈の手を引っ張って立ち上がらせようとするが、杏奈には立ち上がる気力さえ残っていなかった。

 仕方ないので俺は杏奈を強引にを抱き起し、近くにあるソファへと座らせた。彼女の身体は酷く軽かった。

「……大丈夫か?」

「う、ん……」

 杏奈はソファにぐったりと腰かけると力なく答える。全然大丈夫なんかじゃない、それは杏奈の様子を見れば一目瞭然だった。

「その顔の傷……自分で引っ掻いたのか」

 杏奈の顔には複数の傷跡が無残に残されていた。何かで激しく引っ掻いたような、生々しい傷跡だった。

「……へへ、ちょっと私おかしくなってたのかもしれない……和彦くんが来てくれなかったら、私……どうなってたか」

 本当にその通りだ。もし、俺が今日この家を訪れていなかったら……杏奈はどうなっていただろうか。

 台所の包丁で自分の喉を掻っ切っていたかもしれないし、下手をしたら上にいる祐介と無理心中までしていたかもしれない。


「……けど、和彦くんはどうしてここに? 何か私たちに用でもあった?」

「ん? ……ああ」

 杏奈がそう聞いてくれたおかげで、俺は自分がここに何をしに来たのかを思い出す。杏奈の予想以上の焦燥した姿を見て、忘れていた。

「……もしかしたら……もしかしたら、祐介を外に連れ出せるかもしれない。しかも無理矢理でなく、自発的に」

「え……? どういう……」

 杏奈は目を丸くして茫然としていた。その疲弊しきった顔に、一瞬だけ光が戻った気がした。

「いいから、まずはあいつの部屋に行こう。話はそこでするよ」


 俺と杏奈は2人で階段を上り、祐介の部屋の前に立っていた。部屋のドアは固く閉ざされ、まるで牢獄のようだった。

「……祐介、俺だ」

 俺は軽くノックをしながら祐介に呼びかける。どうせ駄目だろうと思ったが、意外な事に言葉が返ってきた。

「……なんだよ。部活なら休んだはずだ……俺が外に出るとみんな不幸になる……放っておいてくれ……」

 中から力ない祐介の声が聞こえる。部活で、あんなに大声を張り上げてボールを追いかけていた祐介がこんな姿に……信じられない。

「いや、別に説教をしに来たんじゃねぇよ。ただ……1つ、大切な話をしに来た」

「……話?」

「ああ。聞くだけ聞いてほしい。最終的に決めるのはお前自身だ」

 そう、俺が今日ここに来たのはその話を祐介に伝えるため。そして、それを聞いたお前が自発的に外に出てくれるのが一番望ましい。


「……」

「あの……それって一体……」

 杏奈は少し不安そうに俺の方を見つめてくる。だが、俺はその視線に目を合わせる事もせずに話を進める。

「西崎……明日、手術だそうだ」

 これが、祐介を外に出すための俺の手段だった。西高の知り合いから聞いた確かな情報だ。

「……」

 しかし、祐介は驚いているのか無反応なのかは分からないが、声を全く漏らさなかった。

「西崎にとって……全てが変わる手術だ」

 そう、彼にとっては世界が変わってしまうような重大な意味を持った手術。それが明日に行われるのだ。

「それって……っ、回復するって事ですか……? 西崎さんはっ……?」

 杏奈の表情は確実に動揺していた。極度の疲労のせいか、表情を誤魔化す事すらできなくなっているんだろう。動揺するのは当然だろう。杏奈自身が西崎をこんな目に遭わせているんだからな。

 西崎がもし助かってしまったら、自分のした事が台無しだ。


「……ああ」

 俺は静かにうなずいた。確かに助かるだろう、命は。しかし、残酷な事に彼にとって命以上のモノを失う事になる。

「はは……やっぱり、駄目だったんだなぁ……はは。『奇跡』なんて起こらなかったっ……」

 祐介は何かを察したのか、ケラケラと力無く笑い始める。もう、どうやって反応して良いかすらも分からなくなっているんだろう。

「お兄ちゃん……? それってどういう……」

 杏奈が震える声でドアの向こうの祐介に問いかける。

「両手足の切除手術……なんだろ? やっぱりあいつの身体は元には戻らなかったんだ……っくそ。くっそ! やっぱり! みんな……不幸にしかならなかったっ……」

 祐介は恐らく部屋の中で床を何度も殴りつけているんだろう。拳が床とぶつかって骨が軋む音がこちらまで響いてくる。

 ……こんな精神状態でも、祐介は西崎に奇跡が起こる事を信じていた。しかし、残酷にもそれは裏切られる事となった。


「両手足切除って……そんな事したら西崎さんはもう……」

「もう、サッカーは出来ない身体だろうな……」

 俺は沈んだ表情でそう言った。今までサッカーをしてきた人間からそれを奪う。それがどんな苦しみを伴うか……考えるだけで胸が痛む。

 もし、俺がそうなったら……絶望して全てを諦めてしまうかもしれない。西崎から両手足を奪うという事は、それほど重大な意味を持つのだ。

「けど祐介……今後、西崎がサッカーを出来なくなっても……お前はそれでも西崎のライバルだろ? 病院に行って、手術室の前で一緒に戦ってやる事は出来るはずだ。ライバルとして西崎の戦いを見守ってやれるはずだ。本当の、ライバルならな!」

 俺は残酷だと分かっていたが、祐介にそう言った。友人の手足が失われる所を見に行けと言っているのだ。残酷な話だ。

 しかし、祐介には外に出てもらって今までと同じ祐介に戻ってもらわなければ困る。そんな腑抜けたお前を……あの少女は望んでいないんだ。


 あの少女が求めているのは…10年前のように輝ている祐介だ。何としても今の状況を打開しなければいけない。


「……」

 杏奈はただ黙っていた。恐らく、西崎の手術が生存のためにやむを得ない両手足の切除と聞いて安堵しているんだろう。

 その手術が済めば西崎がサッカーで祐介の邪魔をする事は無くなるし、切除だけの手術なのでその手術で西崎が意識を取り戻す確率が上がる事も無い。

 右足の親指どころか、四肢そのものが切り落とされれば……西崎が祐介の障害になる事はない。

「残酷な要求だって事は分かってる、けどな……西崎だってそれを求めてるんじゃないのか? 祐介!」

 俺はドアに向かって感情をむき出しにして声を荒げた。今、この兄妹2人には俺は面倒見の良い年上の幼馴染に思われているんだろう。

 だが、それは違う。今は目的の為にそれを演じているだけなんだ。


「……無理だ」

 微かにそう聞こえた。祐介の半泣きの声だった。

「あいつが……手足を切り落とされて芋虫になるのを……わざわざ拝みに行く理由が無いだろ……」

 その声はどんどん嗚咽が大きくなっていき、最後の方はよく聞き取れなかった。

「お兄ちゃん……」

「そうか……すまなかった」

 俺はドア越しにそう言い、大きくため息をついた。

「ごめん杏奈ちゃん……力になれなくて」

「ううん……和彦くんが謝る事じゃないって。お兄ちゃんもきっと……いつか分かってくれるよ、きっと」

「明日も……部活終わったら顔出すから」

「……うん、ありがと」

 そう言った杏奈の表情は、少しだけ柔らかくなった気がする。でも、本心では俺の介入を快く思ってはいないだろう。杏奈は自分の力だけで祐介を立ち直らせ、最終的に自分だけのものにしたいと思っているのだ。


 だが、残念ながらそうはさせられない。

 祐介は……あの少女のものになるんだから。


「じゃあね」

 俺は杏奈に軽く手を振って塚原家を後にした。

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