【7月26日 リビング:塚原 杏奈】
私は1人でリビングへ戻り、ソファーに一旦腰かける。1人でソファーに座っていると自然と沈黙に耐えられなくなって涙が滲んでくる。
「……ぐすっ……」
頬に涙が流れてきたのでそれをゴシゴシと服の袖で拭う。泣いても仕方ないのに、私は何をしているんだろう。
どうして、お兄ちゃんがあんな苦しそうにするんだろう。
西崎は昔からサッカーでお兄ちゃんの邪魔ばかりして、それをお兄ちゃんも煩わしく思っていたはず。なのに、何で西崎の心配ばかりしてるの? サッカーでもうお兄ちゃんの邪魔をする奴はいないのに……。
峰岸だって……私からお兄ちゃんを寝取ろうとした薄汚いビッチじゃん。西崎へのお見舞いを装って、お兄ちゃんを誘惑して……。
お兄ちゃんだってそんな女、嫌だったんでしょ? なのに、あんな女が死んだくらいでどうしてあんな取り乱してるの?
「……なんでよっ! 私はこんなに頑張ってるのに……っ」
気が付くと私の怒りの矛先はお兄ちゃんへと向いていた。
私の知っているお兄ちゃんは私の頑張りをいつも見ていてくれて、いつも笑顔で頭を撫でてくれた……そんな優しくて、かっこいいお兄ちゃんなのに……。
「今のあなたは……一体、誰なの……」
今のあなたは本当にお兄ちゃんなの?
分からない。本当はお兄ちゃんの偽物なの? 分からない、分からない。
それとも……。
「本当に……私の事、嫌いになっちゃったの? 私はずっとお父さんとお母さんと神様にお祈りだってして、お供えだってしてるのに!」
私は自分の顔に爪を立て、苛立ちを感じながら自分の顔面を激しく掻き毟る。どうしようもない怒りを吐き出すにはこうするしかなかった。
どうして、なんで。
私はお兄ちゃんを守るために自分の手を汚してまで……妹としての責任を果たしたんだよ。
なのに……どうして私の事を嫌いになるの?
そんなの……そんなのひどい、ひど過ぎるよ、お兄ちゃん。私の爪は更に深く皮膚へ食い込んでいく。もう痛みすら感じなかった。
「……嫌っ、そんなのっ……嫌だよぉ……っ! 助けてお父さん、お母さん……」
私の心が音を立てて崩れ始める。
こんな風に私の心がおかしくなった時、前ならお兄ちゃんが頭を撫でながら抱きしめてくれた。そうして私を落ち着かせてくれた。
けど、今はそんな風に助けてくれる人はいない。
私は胸が苦しくて椅子に座っている事すらできず、床に勢い良く倒れ込む。
「……っう……たす……け」
いくら手を伸ばしても、その手を握り返してくれる人はいない。もう、誰も私を助けてくれない。お兄ちゃんですら……。
「……もう、嫌……」
お兄ちゃんに見捨てられたら、もう私は生きていけない。なら、もうここで1人で寂しく死んでもいい、そう思った時だった。
「杏奈ちゃん!」
私の力の抜けた手を、力強く握ってくれている人がいた。懐かしくて、力強い男の人の声だった。
「……和彦……くん?」
「しっかりしろ! 立てるか?」
和彦は、そう言いながら私の手をしっかりと握りながら私の事を床から引っ張り上げてくれた。
その和彦の手が、驚くくらい大きくて温かかった事を覚えている。