【7月22日 どうしよう:塚原 杏奈】
そこからお兄ちゃんは精神的なショックで発狂し、私では手が付けられないほど泣き叫び続けた。峰岸の最期の留守電により、今まで自分が心に留めておいた感情が全て決壊し、負の感情として溢れ出てしまっていた。
今まで、お兄ちゃんがこんなに取り乱す事なんて無かったのに。
私はあの日、あの女の顔を硫酸で溶かした。そして……その後に『唇』を丸ごと、ハサミで切り取った。
身体の一部を持ち帰る事は元々決めていたけど、あの女は……お兄ちゃんとキスをした。
私ですらした事がないのに、あんな汚れた女がお兄ちゃんの唇を……今思い出すだけで吐き気がする。
……だから、切り取ったのだ。お兄ちゃんの味に触れたあの唇を……ハサミでズタズタにして切り取ってやった。2度とお兄ちゃんの味も、感触も思い出せないように。
でも、こんな事になるなら……あの場で殺しておけば良かった。
刑事たちはお兄ちゃんのその異様な姿を見て、反射的に救急車を呼ぼうとしたけどそれは私が止めた。刑事たちは茫然としていたが、それにはちゃんと私なりの理由があった。
「お兄ちゃんは私がなんとか落ち着かせます! だから……今日はもう帰ってください! お願いしますっ!」
私が責任を持って、付きっきりでお兄ちゃんを看病すると刑事たちにそう告げた。これ以上に騒ぎを大きくしたくなかったし、何より私の手だけでお兄ちゃんを助けてあげたかったから。他の奴らなんかに任せてなんていられない。
私の力だけでお兄ちゃんを救ってみせるよ。そうすれば、お兄ちゃんとの愛がもっと深まるような気がしたから。
そして、それを聞いた刑事たち……特に若槻とかいう刑事の方は納得できないような様子だったけど、それを新入りの刑事がなんとか丸め込んでくれた。
「分かった……妹の君がそう言うならお兄さんは任せるよ。けど、何かあったらすぐに病院に連れていく事。いいね?」
「……面倒事になる前に大人に頼れよ、良いな」
刑事たちは私にそう言って釘を刺した。実際こいつらも自分たちの捜査中に相手が精神異常を起こしたなど上に知られたくなかったんだろう、全て私に任せてくれた。結局、大人なんてこんなもんだ。
「はい……分かってます、大丈夫ですから」
そして刑事たちは、お兄ちゃんの事を私に任せると言ってそのまま帰って行った。
……やっと刑事たちを追い払ったけど、お兄ちゃんの発狂が収まる様子はまるで無かった。
何を言っても聞き入れてもらえず、身体を抑えようとしても非力な私じゃ全然歯が立たなかった。壁や床を爪で引っ掻き回し、叫び声を上げながらそれを何度も何度も繰り返していた。
そして、それから少し後。
お兄ちゃんはある程度落ち着きを取り戻したのか床や壁を引っ掻き回す事を止めた。その指からは既におびただしい量の血が流れていた。
そして、私が血塗れになった指を治療しようと絆創膏を持って近づくと、私から逃げ出すように階段を駆け上がり、お兄ちゃんは自分の部屋に閉じこもってしまった。その時のお兄ちゃんの指……私は見て鳥肌が立った。なぜなら、指にはもう爪は一枚も残っていなかったから。それほどまでに強く掻き毟ったんだろう。
そして、お兄ちゃんは部屋の鍵を閉め、私の声を遮断するように部屋の中でずっとうめき声を上げていた。刑事たちにはあんな事を言ったけど、私はそれに対してどうする事もできずにただその場に立ち尽くすだけだった
「ごめんね、お兄ちゃん。きっと私の『お祈り』が足りなかったんだね……お父さん、お母さん、神様、これからはもっと頑張るから……だから、お兄ちゃんの事だけは……守ってあげてください」
私はその場にへたり込み、嗚咽混じりに天へ祈りを捧げた。