【7月22日 投身自殺:塚原 杏奈】
若槻とかいう中年刑事が驚愕の事実を口にした。私も、お兄ちゃんも、新入りの刑事も目を丸くしていたと思う。
「……へ?」
お兄ちゃんが驚きのあまり、ものすごい気の抜けた声で若槻に尋ねる。
「……峰岸が病院の屋上から飛び降りたんだ。つい、さっきな」
それに対し若槻は無情に真実を伝えた。
「……嘘だろ?」
「嘘でこんな事が言えるか、事実だ」
若槻が温度のない冷たい声で言う。
「……なぁ、嘘だよな? あんた悪い冗談だろ」
お兄ちゃんはフラフラと若槻の方へ近づいていき、若槻の肩を何度も揺さぶった。その姿は支えを失った人形のようだ。
「……しつけぇな、峰岸は死んだっつてんだろ!」
苛立った若槻がお兄ちゃんの胸を押しのけて、突き飛ばす。大した力でもなかったのに、お兄ちゃんは簡単にリビングの方まで吹き飛ばされる。
「お兄ちゃん!」
突き飛ばされたお兄ちゃんはそのまま廊下を滑り、リビング前で力無く倒れこんでいた。
私はお兄ちゃんにとっさに駆け寄ったが、お兄ちゃんは目を見開いたまま動かなかった。
……まるで壊れた人形みたいに。
「若槻さん! あなたいくらなんでも!」
「うるせぇよ! 俺はこういうメソメソした奴が一番嫌いなんだ、さっさと現実を受け入れろってんだ」
若槻はお兄ちゃんを突き飛ばした事なんて全く気にしてなかった。
「……殺すぞ」
無意識に私の心の声が口から漏れていた。急いで口を塞ぐ。私のお兄ちゃんを突き飛ばしておいてこの態度……許せない。
お前もいつか殺して、目玉でもくり抜いてやる。
「お兄ちゃん……しっかりして」
「……峰岸、峰岸、峰岸……峰岸」
お兄ちゃんはさっきから同じ名前ばかりを壊れた機械みたいにリピートしていた。
「お兄ちゃん……峰岸さんは……もう」
「……っはは、は」
お兄ちゃんに私の言葉は全く届いていなかった。何を言っても目は見開いたまま、口からは涎を垂らし、ただずっと天井を見上げていた。
それを見て、今は何をしても無駄だと思った。今は放っておくしかない。私は辛かったけど、お兄ちゃんのそばからそっと離れる。
そして、刑事たちのいる玄関まで戻って行く。
「……お兄さんは、大丈夫かい」
新入りの刑事が私に気を遣っているのか、優しくそう尋ねてくる。
「ちょっと……今は」
「そうか……そうだよな、ショック……だよね。君も」
「……」
新入り刑事に対して私は無言で頷く。ちなみに峰岸が死んだ事がショックなんじゃない、お兄ちゃんが峰岸の自殺に対してあそこまでショックを受けている事がショックなのだ。
あんな女が死んだくらいで……なんであんなに悲しむのよ、お兄ちゃん。
「ったく……最近のガキは打たれ弱ぇ……」
若槻はため息を大きく吐いて、その薄い頭をボリボリと荒く掻き毟る。
「……おい、佐藤! そこのガキ共の携帯2つとも持って来い!」
「……若槻さん、一体どういう」
「峰岸からの連絡があったか確認する、自殺の前にこいつらに何かを連絡したかもしれねぇからな。見舞いに行くくらいの仲だったんだろ、お前ら」
「そんなっ……令状も無いのに勝手に!」
「この場でちょっと確認するだけだ! 問題ねぇ!」
「でもこの子たちにもプライバシーってもんが……」
若槻の言葉に対し、佐藤と呼ばれた新入り刑事は声を荒げる。
……勝手に人の家に来て、挙句の果てに人の携帯まで覗こうだなんて、なんて図々しい奴なんだ、こいつは。ここまで屑だと逆に清々しいくらいだ。
「……私は別に、構いませんよ。お兄ちゃんのも私が持ってきますから」
しかし、私は心の中のドス黒い感情を押さえつけ、極力笑みを崩さないようにして佐藤に自分の携帯を手渡した。
「で、でも!」
「大丈夫です、これで私とお兄ちゃんの疑いが晴れるなら……安いものですし」
お見舞いの時、既に峰岸には犯人を暴露するような勇気はもう残っていなかった。それほどまでにあの女の精神は私の『制裁』による恐怖で蝕まれていた。あいつに残ったのは私への本能的な恐怖とトラウマだけ。
「じゃあお兄ちゃんのも持ってきますね」
そんな女がお兄ちゃんに死の間際になって何かを連絡していても、何の問題も無い。あんな精神状態でまともに事件の事を話せるわけがないんだから。
もし自分が余計な事を話したら、大切な家族が自分と同じ苦しみを受ける。あの女はそれをよく分かっているはずだ。
……私はもう一度座り込んでいるお兄ちゃんの元まで戻り、ズボンのポケットから携帯を引っ張り出した。電源は切れているみたいだった。そして、それを持って佐藤の元までもう一度戻って行く。
「これです、どうぞ」
「……すまない」
佐藤が申し訳なさそうにそれを受け取り、そのまま横に立っていた若槻に2つの携帯を手渡した。
「おう」
2つの携帯を受け取った若槻は順番に電源を入れ、ブツブツと何か言いながら携帯の液晶画面を睨み付けていた。まるで粗探しでもしてるみたいに。
しばらくして、液晶画面から目を逸らしながら若槻は首を黙って横に振った。どうやら私の携帯には峰岸からの連絡は無かったみたい。当然なんだけどね。
若槻は不機嫌そうな顔で大きく溜め息をつく。
「……ふん、妹の方には何も来てないみたいだな」
そう言って1つ目の携帯、私の方の携帯の電源を落とし、私の方へ返してきた。
「……悪かったな」
若槻は感情は全く籠っていなかったが、本当に形式上だけという感じで謝ってきた。
「いえ、それより早くお兄ちゃんのも確認してあげてください」
「ああ、分かってる」
すると若槻はお兄ちゃんの方の携帯の電源スイッチをやや乱暴に入れた。その様子から若槻の苛立ちが滲み出ていた。何が何でも事件の手掛かりが欲しいんだろう。
携帯の起動音が静かな玄関先に響き渡る。
そして無事電源が入り、液晶画面を目にした若槻の表情が一瞬で、苛立ちから薄ら笑いへと変わった。
「へへ、ビンゴだ」
「……なにか、見つかったんですか」
「10分前に留守電1件……峰岸からな」