【7月21日 西総合病院:塚原 祐介】
俺は院内に汗だくになって入ると、受付の看護婦に怒鳴りつけるかのような口調で峰岸の病室番号を聞き出す。
「峰岸! 峰岸の病室番号は!」
「ちょっと……院内では静かに」
「良いから! 後輩なんだ、早く教えろ!」
乱暴な物言いだがそんな事に構っている余裕はなかった。一刻も早く峰岸に会いたかった。俺の鬼気迫る表情に怯えながらも、看護婦がパソコンで峰岸の名前を患者のリストから探し出す。
「峰岸さん……ああ、504号室……ってちょっと! 5階には医師の許可がないと……」
番号だけを聞くと俺は受付から全力で峰岸の病室からダッシュする。まずは階段で5階まで上がらなければ。エレベーターを待つ時間さえ今の俺には惜しかった。
途中、看護師や患者と何度もぶつかりそうになるが、今の俺にはどうでもいい事だ。
「どいてくれ! どけ!」
院内に響き渡る自分の叫び声。今の俺は周りからは頭がおかしな患者とでも思われているのだろう。途中からは皆、道を譲り始めた。
「おい! 危ねぇだろ!」
「気を付けろ!」
途中何度か怒鳴られたがそれらは全て無視した。
「峰岸……峰岸!」
何度も彼女の名を口走りながら、俺は病院の非常階段を必死で昇り始め、峰岸の病室がある5階を目指した。
峰岸の入院する5階。それは重篤な病などで余命が僅かであり、ただ死を待つ患者、精神的に重度の異常を引き起こした患者、その他特殊な理由で一般病棟に移れない患者が収監されているフロアだった。
この病院の予算の問題で閉鎖病棟が建てられなかったため、こうして階で病棟を区切っているらしい。
西崎は重傷ではあったが、命に別状はなかった為、この5階のフロアには搬送されなかったと前に峰岸が言っていた。
つまり、今5階に入院している峰岸はそれほどまでに重傷であるという事だ。
……恐らく、硫酸によって激しく損傷した顔を人の目にできるだけ触れさせない為、この5階に峰岸は入院しているのだろう。もしくは峰岸の精神状態を考慮しての事か。
「……っく」
俺は病室の扉の前で震えながら立ち尽くしていた。扉を開けようとする手はガタガタと震え、全身から汗が噴き出している。
あの時と同じだ。西崎の病室に初めて見舞いに行った時。いや、あの時より怖いかもしれない。なぜなら峰岸がどんな状態になっているか、硫酸という言葉1つで残酷な予想ができてしまうから。
「……入るぞ、峰岸」
だが、俺は震えながらも扉をに手をかけて言葉を発する。しかし、中からの応答はない。
西崎の時は中から峰岸が扉を開けてくれた。だが、今はその時の峰岸はいない。
俺が開けるしかない。覚悟はできていた。
ガラッ……
俺は老朽化した木製の扉を静かに、開いた。
病室はかなり古臭い、老朽化の進んだ部屋だった。壁には染みやら何やらで汚れてるし、空気もカビ臭くて、部屋にいるだけで精神がおかしくなりそうだ。本当に病院はこの部屋で患者を療養する気があるのかと疑いたくなる。
そんな薄汚れた部屋の片隅のベッドに、彼女は横たわっていた。俺はつい2度見してしまう。
「峰……岸か?」
俺は横たわる少女にそう問いかける。なぜなら、その少女の顔の半分以上に包帯が施され、表情などが一切読み取れないからだ。
例えるなら、古代のミイラの様な状態だ。
「……私の事は忘れたんじゃないんですか」
包帯に塞がれた口から言葉が発せられる。聞き取りづらい声だったが、間違えなく聞き覚えのある峰岸の声だった。
しかし、以前の明るい口調は全く無い。
「その……俺、なんて言ったらいいか……」
俺は峰岸の変わり果てた姿に動揺した。予想は出来ていたが、実際に目にするのはかなりきつい。
あの包帯の下の顔の状態を想像すると、卒倒しそうだ。
「気休めはやめて……あたしの顔を笑いに来たのなら帰ってください。誰とも関わりたくないんです……だから5階の病棟に入ったっていうのに……」
峰岸はそう言って手に持っていた千羽鶴をぐしゃりと握り潰した。今まで、ずっと折り続けてきた鶴は、簡単にただの紙屑になってしまった。
「そもそも、何であなたがここにいるんですか……面会の許可もしてないのに」
ここは本来なら医師の立ち合いが無ければ面会も許されない。
だが、俺は受付の看護婦を振り切って来てしまったのでこうして1人で面会に来ている。本来なら許されない事だが、そんな事に構ってなどいられなかった。
「……」
俺は何を言っていいのか分からず、ただその場に立ち尽くす。
「黙ってるなら、帰ってくださいよ!」
峰岸の怒声が飛ぶ。その怒声でようやく俺の声帯が働き始めた。
「……す、すまなかった。俺のせいでこんな……俺があの時、一緒に帰っていれば……」
「謝って、あたしの顔が治るんですか? 綺麗に戻るんですか? 不愉快です、謝罪程度で自己満足できたなら早く消えてください! 不愉快!」
「峰岸!」
「あたしの顔を……女としての人生を返してください!」
峰岸が近くに会った空っぽの花瓶を俺に投げつける。その空っぽの花瓶が、峰岸の人間関係の表れだった。誰1人として、ここへ見舞いに来るものはいないという事。
そして、投げた花瓶は狙いを外したのか俺の足元へ放物線を描き、床に落ちてガシャンと大きな音を立てて割れる。当然の反応だ。俺が謝った所で何も戻らないんだ。彼女の顔を、女としての人生も。
女性にとって顔は命だ。しかし、峰岸はそれを硫酸という残酷極まりない手段でぶち壊されてしまった。峰岸が笑顔で俺に笑いかけてくる姿を思い出す。俺に頭を撫でられて少し恥ずかしそうに照れ笑いする姿を思い出す。
これらの表情は、もう2度と見る事は叶わない。残酷だが、今は皮膚を醜く溶かされた肉塊でしかない。
「……分かった」
俺はなるべく峰岸の顔を見ないようにして静かに告げる。見たら心がおかしくなりそうだったから。
「2度と……ここには来ないよ」
「ええ! 是非そうしてください! そして、一生背負い続けてください! たった1人の女の子の、夢も希望も……幸せも全て奪った……罪を……っ」
峰岸は半泣きになって訴える。顔の表情は分からないが、その湿った声で泣いているのだと判断できる。
「……さようなら」
俺は割れた花瓶を見つめながら言う。やはり最後まで峰岸の顔は見れなかった。そして俺が部屋から出ようと外の廊下へ1歩足を踏み出した時だった。
声が聞こえた。
この状況とは明らかに不釣り合いなテンションで、聞き覚えのある明るい声が、廊下から聞こえた。どうやら鼻歌か何かを歌っているようだ。
その声の主は、この病室に向かって鼻歌交じりで軽快な足取りで徐々に近づいてきていた。そして、病室の扉が開かれる。
「こんにちは、峰岸さんっ! 私の事、覚えてるかなぁ?」
それは、腕一杯に花束を抱いた妹の杏奈だった。