【7月20日 病院からの帰り道:塚原 祐介】
俺と峰岸は病室を出た。いや、正確には追い出されたというべきか。
医者の話は確かこうだった、西崎はもう目覚めないだろうし、仮に目覚めても2度とサッカーをする事はできない。どうせ目も覚まさないんだし、君達も毎日、見舞いに来なくてもいいんじゃないか。どうせ、彼はしばらくしたら『芋虫』になってしまうんだから。
俺の記憶はここまで。そこから俺はあの郷田とかいう無神経な医者に掴み掛り、周りの連中に取り押さえられて病室から追い出された。一緒にいた峰岸もだ。
医者の言う事が今になって頭に浮かんでくる。要するに今までの西崎が戻ってくる事はないという事が今日、医者の言葉によって確定してしまったのだ。
そして、俺が絶対に許せなかったのが西崎を『芋虫』と呼んだ事だ。まるで四肢切断をする事を面白がっているようなあの態度を、俺は許す事が出来なかった。
そして今、こうして2人で黙ったまま夕方の住宅街を目標も無く歩いていた。
「……すまん、俺のせいで追い出されて」
「……嘘、ですよね」
峰岸が消え入りそうな声で言う。
「……何が」
「西崎先輩がもう、サッカーが出来ないって話。お医者さんの嘘ですよね?」
峰岸が何かを期待するような眼差しで俺の顔を見てくる。やめてくれ、俺にどんな答えを求めてるんだよ。俺だって分からないんだよ、勘弁してくれ。
「……俺も信じられない、けど……信じるしかないんだろ、奇跡が起こるのを」
「……西崎先輩……なんでっ」
峰岸がその場でしゃがみこむ。顔を両手で覆い、涙を拭うために何度も目を擦っている。無理もない。中学生の女の子が受け入れるにはあまりにも重過ぎる、残酷な現実だ。
「うっ……ぐす……」
泣きじゃくる峰岸にかける言葉が見つからない。自分の無力さが嫌になる。
「西崎先輩をあんな目に遭わせた犯人も見つからなくて……これじゃあ、西崎先輩が救われないよっ……可哀想、過ぎるよ……」
そう、西崎をあんな身体にした憎き犯人も未だに捕まっていない。あの人通りが少ない神社の前では目撃情報も無く、捜査は難航しているらしい。下手をしたら、このまま迷宮入りだろう。
「……くっそ」
何もかも最悪だ。西崎は元に戻らない、犯人は分からない。誰1人として救われない。なんだよこれ、最悪の結果じゃないか。俺は唇を噛みしめる。
峰岸の方を見る。目は虚ろで口は半開きになっている。まるで感情のない人形だ。
……ああ、このままじゃ駄目だ。ここで何も話さなかったら余計に気分が沈んで2人とも気が狂いそうだ。何か、俺が何か話さないと……。
「……大丈夫か、峰岸?」
「……はい、ちょっと今は心がぐちゃぐちゃになってて……ごめんなさい」
「辛いとは思うけど……まだ全ての運命が決まったわけじゃない……ほら! 不治の病が急に治ったりだとかそういう話あるだろ! だから……だから『奇跡』は!」
ああ、何言ってんだ俺は。言ってる事も理屈も全て滅茶苦茶だ。俺だって精神的には峰岸と同じようにぐちゃぐちゃの状態だ、今すぐこの現実から逃げ出したい。
でも、ここで俺まで黙ってたら峰岸の心はどんどん沈んで行ってしまうだろう。人間の精神が脆い事は俺がよく知ってる、1度壊れたら簡単に戻る事も無い。妹の杏奈の精神状態を見ていればよく分かる。
「だからっ……だから! まだ、悲しむのは!」
俺は理屈も通っていないような滅茶苦茶な言葉をただ羅列し、峰岸にひたすら浴びせ続けた。でも、これで少しでも峰岸の心が救われるのなら……。
「……っふ」
その時、微かだが息を吹き出す音が聞こえた。俺は目の前にしゃがんでいる少女に目線を向ける。
そして、そのしゃがみこんでいる少女を見ると、大きな濡れた瞳が俺の顔を無邪気に見上げていた。
「……先輩」
「……何だ」
「先輩って、こんな時でも私の事……気遣ってくれるんですね……」
そう言って峰岸はゆっくりと立ち上がった。そして、俺の目の前に直立する。しかし峰岸は小柄なため、実際は俺の肩くらいの位置に峰岸の頭がある。
「……」
数秒の沈黙が流れる。さっきまでとは違う、何故か胸騒ぎするような沈黙。それは峰岸が覚悟を決める為の沈黙だった。
そして、峰岸は俺の首元に腕を回し、一気に体重をかける。それによってバランスを崩し、峰岸の方に倒れこみそうになる。そしてその時、俺の唇に何かが当たる。
「……っ」
俺は頭が真っ白になる。そして、数秒の思考停止の後にやっと理解する。これは峰岸にキスをされたのだと。時間で表せば2秒ほどだろう。しかし、俺にはもっと長いものに感じられた。それほどまでに濃厚な密度の数秒だったのだろう。
「……っはぁ」
峰岸が俺の唇から自分の唇を遠ざける。そして、その今にも溶けそうな瞳で俺の事を見つめている。
「……峰岸」
「塚原先輩のそういう所……好きです。でも、そのせいで、私……先輩の事、本気で好きになっちゃったかもしれないです……だから、先輩として、ちゃんと責任取ってくれますよね」
峰岸の濡れた瞳が俺を誘惑してくる。
……ああ、そういう事か。
俺は気付いてしまった、峰岸がどういう事を考えていて、どういう人間なのか。
やっぱり、こいつもそういう事だったのか。
前を向くと峰岸が期待するような眼差しで俺を見つめている。だが、俺の答えはとっくに決まっていた。
「悪いが……それは無理だ」
そう言って俺は峰岸の肩を少し強めに押しのける。その衝撃で峰岸は少しよろけて後退し、俺と距離が少し開く。
「……えっ、どうしてっ……どうしてですか? 先輩、もしかして彼女とか……」
「そうじゃない。ただ、俺にそういうつもりがないだけだよ」
俺は冷たく峰岸を突き放す。すると、峰岸の焦りは更に増す。
「つもりがないって……先輩、あんなに私に優しくしてくれたじゃ……」
「あれは……妹みたいな感覚だったんだ、勘違いさせたなら……済まない」
「あ、あたしの何が不満なんですか? 教えてください、そしたら……いくらでも!」
その時、俺の中で何かが切れた。峰岸のあまりにも身勝手で、下らない行動のせいだ。
「……こういう局面を利用して、人の好意を得ようとするお前の捻くれた精神だよ! なんでこんな状況で、そんな真似ができるんだよ!」
俺は住宅街の真ん中である事を忘れて大声で叫ぶ。通行人の何人かはこちらを向いたが、関係ない。俺は許せなかった。人の不幸を利用して、悲しみに付け込み、自分の幸せを得ようとするそのやり口。卑怯にもほどがある。
「ごっ……ごめんなさい……っ、あたし、そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、どういうつもりだよ! 西崎が事故って、悲劇のヒロイン演じられるとでも思ったんだろ? そうすれば誰かに振り向いてもらえる……そういう筋書きだったんじゃないのか!」
「……っ、あたしは! 本当に西崎さんが心配で!」
「……あ? じゃあ今のキスは何だ? 男なら誰でも良かったんだろ、なぁ!」
俺は必死に弁解する峰岸に肩を今度は思いっきり突き飛ばす。峰岸は完全にバランスを崩し、尻餅をついて地面に転がる。
「きゃあ!」
予想以上に峰岸が派手に転んだので、俺は少し動揺してしまう。まずい、少しやり過ぎてしまったか。突き飛ばすだけで転ばせるつもりはなかったのに。峰岸の制服は転んだ衝撃か、膝を少しすりむいていた。
「痛い……どうして……ひどいです」
峰岸がまた泣きはじめる。
お前が悪いんだ。こんな状況で自分だけ悲劇のヒロインぶって……そんな事が許されるわけないだろう。今までの見舞いも、ただ良い子を演じたかっただけなんだ。俺も西崎も、その茶番に付き合わされてたんだ。
「……もう見舞いには来なくいい、俺1人で続けるから」
そう言って俺は峰岸を置いてすぐにその場を立ち去ろうとする。心がもやもやして耐えられない。一刻も早く峰岸から離れたかった。
「……っ! 塚原先輩! 待って……っ」
「……ごめん、もう俺の事は忘れてくれ。俺も君の事は忘れるつもりだから」
「……そんな」
そして俺は後ろも振り返らず逃げ出すかのように自宅まで走った。ただ、心が痛んで仕方がない。早く家に帰って何もかも忘れてしまおう。
そうすれば、明日から何もかも元通りになる、そんな気がしていた。