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第25話 芋虫

【7月20日 病室:塚原 祐介】


 朝はちょっとしたトラブルがあったが、杏奈も頭なでなでのお蔭で大分落ち着いてくれた。やっぱり、あれの効果は今でも絶大だったようだ。


 しかし、最近はかなりの頻度で杏奈の精神状態が不安定になる。学校で何かあったのか、もしくはそれ以上にあいつの心を抉るような事があったのか。兄としてはそれが不安だった。今まではこんな短い期間で精神が不安定になる事なんて無かったのに……。

 最近は俺が家を空ける事も多く、杏奈に構えてもいなかったし……そのせいか。


 しかし、そんな不安を消し飛ばすほどの衝撃を、この日に俺と峰岸は受ける事になる。


 西高に寄り、西崎の荷物を整頓していたら病院に着くのは夕方近くなってしまった。病室のドアを開けると、既に峰岸が特等席であるパイプ椅子で千羽鶴を折る作業をしていた。今日もかなり捗っているようだ。その目の前で変わらず西崎は眠っている。


「あっ、遅かったですね、先輩」

「すまん。ちょっと朝から色々あってな」

 俺も峰岸の隣に置かれたパイプ椅子に少し乱暴に腰かける。

「なんか、あったんですか?」

「ああ……実は俺のYシャツ妹に全部捨てられちゃってさ、それでちょっと喧嘩になっちゃって」

「ふーん……塚原先輩でも喧嘩とかするんですね、意外です。でも、なんでYシャツなんか捨てられたんですか?」

 峰岸は折り紙からは目線の離さずに俺に聞く。うーん、この理由をあんまり女の子相手に説明したくない。

「えーと……峰岸、ここ最近ずっと俺と会ってるよな?」

「えっ! な、なんですかいきなりっ……ま、まぁ……会ってます……けど」

 俺の質問で峰岸の頬は赤くなっていた。

「それでさ、正直に答えてほしいんだが、俺って……臭かったか?」

「……はい?」

 峰岸は拍子抜けしたような顔で俺の方を見る。まぁ、当然だ。こんな質問をする方がおかしい。

「だからさ、汗臭かったとか、変な臭いがしたとか……あ、もしそうなら遠慮しないで言ってくれよ! もしかしたら、それが妹にYシャツ捨てられた原因かもしれないからさ」

「え、ええ……はぁ、臭いですか」

 峰岸は若干引き気味だったが、仕方ない。


 多分、杏奈は本当に俺が汗臭かったとしても気を遣って直接それを言う事は無いだろう。昔から兄の俺に要らない気遣いばかりするからな、あいつは。

 だから、峰岸に聞いてそれを確かめたかった。

「うーん……そんな意識して嗅いでたわけじゃないんで、自信はないですけど……大丈夫だったかと……」

「ほ、本当か? 俺に気を遣ってるわけじゃないよな?」

「多分……平気だと思います……妹さんの勘違いだったんじゃないですか?」

 峰岸が若干引きつった笑顔で答える。

 おいおい、仕方ないだろ。自分の臭いなんて自分じゃ分からないし、他人に聞くしか。俺は心の中で弁解する。

「そ、そうか……悪いな! 変な質問しちまって」

「へへ……ちょっと引きましたけど、まぁ……大丈夫です!」

 やっぱり引いたのか。しかも、まぁ大丈夫って絶対大丈夫じゃないだろう。峰岸はそんな俺を目線から完全に排除し、千羽鶴を折る作業を再開する。相変わらず熱心だな、と俺は純粋に感心する。


 ……でもまぁ、これで臭いの原因は俺じゃないって事はほぼ確定したんだ、このくらいの犠牲は必要だったのかも知れない。俺は自分にそう言い聞かせて平常心を保つ事にする。


「あっ! でも……」

 すると突如、折り紙を折る手を止めて峰岸が声を上げた。

「な、なんだよ! やっぱり臭かったんじゃ……」

「違いますよ! ……もしかしたら、この香水のせいかもって思って……」

 峰岸はスクールバックの中からピンク色の可愛らしいハート形の容器を取り出した。よく店で売ってるような女性向け香水だった。

「これ、女の子の中で流行ってる香水でして。あたしも使ってるんですけど、予想以上に香りがきつくって……その香りが先輩のYシャツに付いちゃったのかも」

 ああ、そういえばこの病室に初めて入った時、少しきつめの甘ったるい香りが漂っていた気がする。あの香り、峰岸の香水だったのか。

「あー、最近は鼻が慣れたからか気にならなかったけど、言われてみりゃ最初は結構きっつい香りだったな、それ」

「あーやっぱり! これきつかったんだぁ……うう、ごめんなさい先輩、あたしの香水がきつかったばかりに……」

 峰岸が少し申し訳なさそうに香水をスクールバックに仕舞う。

「いや、良いって! たまたま香りが付いちゃっただけだし、事故だろ?」

「……うーん。事故ですかぁ……でも、これからはもうちょっと選んで買う事にします!」

「そうだな……ちょっとそれはきついかもしれん」

「あ、じゃあ先輩も一緒に選んでください!」

「え? ……なんで、俺が」

「だって、先輩の為に香水買い直すんですよ。責任、取ってください!」

 峰岸が上目づかいでそんな事を言うもんだから、俺はまた年下相手にドキッとさせられてしまう。最近の女の子はこんなにあざといのか……。

 しかも責任取ってくださいって……周りから変な誤解をされそうだ。

「……先輩、何考えてるんですか?」

「へっ? な、なんでもない」

「嘘。鼻の下伸びてます」

「べ、別に、お前の責任取ってくださいを変な風に解釈したわけじゃ……」

「……先輩、その言い草だと完全に自滅してますよ。あたし、まだ何も言ってないのに」

 峰岸は俺を馬鹿にしたようにクスッと笑う。これもいつもの光景だ。


 そんなくだらないやりとりをいつも通りにしていると、俺たち以外の見舞いが来るはずのなかった病室の扉が、ガラッと音を立てて開かれた。病室の空気が一変する。


「……失礼します。今、よろしいでしょうか」

 その音は、白衣を着た医者達がこの部屋に入ってくる合図であった。彼らはズカズカと革靴を鳴らしながら病室にどんどん押しかけてくる。西崎が寝ているというのに、遠慮も配慮も何もない。


 ……まぁ、この程度で起きるわけがないのだが、医者達の無神経さに若干、俺は苛立つ。

「……どうしたんですか、医者がそんな大人数で」

 俺は少し強めの口調で言う。

「ああ、失礼。私、主治医の郷田と申します。実は今日、西崎さんの事で重要なお話が……ご友人のお2人にありましてね」

 偏屈そうな感じの医者が西崎を気の毒そうな目で見下しながら言う。もう、それは人を見るような目ではなかった。ただ、ベッドの上の肉塊を見る目だ。

「ご両親には先程、連絡をしたのですが……一応、あなた方にもと」

「……一体、それって」

 峰岸が折り紙を折る手を止めて聞く。郷田はそれを見て軽く溜息を吐き、返答した。

「はっきり、申し上げますと……」

 医者はねっとりとした声で口籠る。そして、その事実を告白する。


「今後、彼が目覚める事はないでしょう。奇跡的に目を覚ましたとしても、どんな障害が残るか……それに右足の親指の欠損に加え、両手足の他の損傷もかなり酷くてですね、場合によっては……四肢の切断も考慮しなければならないかと」

 病室に空気が、更に一変した。峰岸の香水の甘ったるさのせいか、視界が大きく歪んだ。


「まぁ、気の毒ですが……四肢切断……『芋虫状態』になってしまったらサッカーどころじゃないでしょうねぇ、彼……『奇跡』でも起きない限りは」

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