【7月20日 リビング:塚原 祐介】
この日、俺は朝から些細な異変に気が付いた。
「なぁ、杏奈! 俺のYシャツ知らないか? 今日は西高に行ってから見舞いに行くから学校のYシャツが必要なんだが……どこにも見当たらないんだ」
この日、俺はまず自分の部屋のタンスから学校指定のYシャツが1枚も無い事に気が付いた。念を入れて4枚は入学時に買っておいたはずなのに、それが1枚も無い。他校とはいえ一応は学校に行くのだから、制服の方が望ましいだろうと思ったんだが……なぜかYシャツが1枚も見当たらないのだ。
ちなみに俺がなぜ西高に行くのかというと、西崎の奴が部室に置きっぱなしにしている荷物を友人の俺が運んで欲しいと西高の顧問から連絡が入ったからだ。
つまり、西高の連中はいつ目覚めるかも分からない……サッカー部員として復帰できるかも分からないような奴の荷物を置くスペースは無駄だと言っているのだ。あまりの身勝手さに、怒りを通り越して呆れてしまう。
「ああ……あれなら、全部捨てちゃった」
洗濯物を干しながら杏奈がけろっと答える。まるで、それが当然の様な態度で。
「す……捨てた? どうしてだよ!」
俺は驚きのあまり声を荒げる。いくら家事を一任しているからといって、人の物を勝手に廃棄するなど度が過ぎている。
「だ、だって……あれ、物凄く汚かったから……酷い臭いだったし、当然でしょ……?」
「だからって……俺に断りも無く、どうして勝手に! そういうのは俺に聞いてから!」
「だってお兄ちゃん、最近は病院ばっかり行って家に居てくれないじゃん! 私は! お兄ちゃんに、あんな汚れたモノを着てほしくないの! あんな汚らわしいモノ……お兄ちゃんには相応しくない! だから……だから私が……!」
杏奈は必死に弁解するが、俺もそれに応戦する。そもそも、俺のYシャツってそんなに汚れてたか……?
確かに部活後のYシャツは汗まみれで、とても良い臭いとは言えるものじゃない。だが、今までの杏奈なら、何度も何度も綺麗になるまで洗濯をして、次に着るときは新品同様に仕上げてくれていた。
なのに、今回は違う。大きく汚した覚えもないのに、洗濯すらせずに全てのYシャツを杏奈はいきなり捨てたのだ。何かがおかしい。
「そもそも、お兄ちゃんがいけないんだよ! あんな汚臭を家に持ち帰ってきて……私は、私はお兄ちゃんのために……!」
「良い加減しろッ!」
「……っ」
俺は思わず大声を上げた。その大声を聞いて、杏奈の体が驚きでビクッと震える。こんな風に杏奈に対して怒鳴った事など今までなかったからか、杏奈はかなり俺に怯えた様子だ。
「……確かに、俺の身の回りの事も家事もお前にほとんど任せてるのは事実だ。甘えてる自覚もあるし、感謝もしてる。けどな、だからって俺の全てをお前が管理しなきゃいけない訳じゃないんだよ。俺にだってプライベートや自分の意思はある……分かるか?」
大声を出してせいで杏奈が怯えきっていたので、俺は少し声のトーンを下げて語りかける。流石に怯えきった少女をもう1度怒鳴りつけるような度胸は俺には無かった。
「……」
俺の声には反応せず、杏奈は瞬きすら忘れて体を震わせている。
やばい、流石に一気に怒り過ぎたか。
いや、本来ならこのくらい怒るのが普通なのかもしれない。しかし、両親が死んでからは俺が兄として可愛い妹を完全に甘やかせて育ててしまった。なので、俺は今まで杏奈に怒鳴った事も手を上げた事も無い。
「……お前には感謝してる、今回も俺の事も考えてやってくれたのも分かる。けどな、お前1人で全部何でもやろうとしないで良いんだ。俺達は兄妹なんだから、これからは2人でちゃんと考えよう、な?」
まるで幼稚園児を慰めるかのように俺は杏奈へ静かに言葉をかける。そんな幼稚園児のように杏奈は今まで泣くのをずっと堪えていたが、もう限界のようだった。杏奈の涙腺が決壊する。
「……う、ん。ごめん……なさい……おにいちゃ……ん、勝手な事して……」
杏奈は湿った声を少しずつ口から吐き出し始めた。その顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れている。
「よしよし、もう泣くな」
俺は杏奈の頭をポンポンと叩きながら軽く華奢な体を抱きしめる。こんな事をして杏奈を慰めたのはいつ振りだろう。やはり、この方法が最も杏奈を落ち着かせる事には変わりなかった。
「ううっ……ありがと、お兄ちゃん……」
俺の胸中で杏奈が笑っているのか泣いているのか分からないような顔でそう呟く。お蔭で俺のTシャツは涙でぐしゃぐしゃだ。
「お前……泣いてんのか、笑ってんのか……どっちだよ」
「へへ……だって、お兄ちゃんが抱っこして、頭なでなでしてくれるの久しぶりなんだもん……」
やはり、こうして鮮明に状況を言葉にされると恥ずかしい。
「……誰かさんを泣き止ませる為だ、仕方無く」
「ふふ……やっぱり、お兄ちゃんの胸の中は温かくて……男の人の匂いがする」
俺の言葉など無視して杏奈は俺の胸板に顔を押し付けてくる。
「いや……でも、お前はその男臭いYシャツが嫌だったんだろ? これからはもうちょっと清潔に気を付けるからさ……」
すると、それを聞いた杏奈は胸から顔を離し、きょとんとした顔で俺の顔を見上げてくる。
「え……? ああ、それは違うよ! 私がお兄ちゃんの香りが嫌でYシャツ捨てる訳ないじゃん! 勘違いしないでよ!」
「……ん? なんだ、俺の汗の臭いとかじゃないのか。じゃあ、臭いの原因って……」
「大丈夫! もう、その汚臭の原因も無くなるから、お兄ちゃんが気にする必要ないよ!」
杏奈は改めて、天使のような笑顔を浮かべた。