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第6話 違和感

【7月3日 リビング:塚原 祐介】


 家に帰ると杏奈が既に夕食を作って待っていた。


 玄関にまで夕食の香ばしい香りが届くほどだ。俺は手だけを軽く洗い、その香りに誘われるようにリビングへと足を踏み入れる。


「ただいま」

「あ、おかえり! 丁度ご飯出来た所なの、はやくはやく!」

 杏奈に急かされて俺は慌ただしく椅子に座る。


「ほら、早く! いただきまーす!」

「い、いただきます」

 あまりの急かしっぷりに少し俺は動揺する。

 杏奈は相当に腹を空かせていたのか、いただきますを言うなりすぐにハンバーグへと手を伸ばし、食らいつく。すごい食欲だ。


「んーっ、おいしーっ! やっぱり私の料理って美味しいーっ!」

「……おいおい、自画自賛かこの野郎。まぁ……確かに美味いんだけどな」

 杏奈は自作のハンバーグを笑顔で頬張っている。確かに今日は特に料理が美味しい気がする。もちろん普段も美味しいのだが。

「あー……そういえば杏奈、週末なんだけど……いきなりで悪いんだけど、西高と練習試合だから弁当頼むわ」

 俺はハンバーグを口に放り込んだ後に言う。

「んん! とうとうお兄ちゃんも試合デビュー到来? やったじゃん! 今まで頑張ってきて良かったね~、今日はお祝いだ!」

 杏奈はバチバチとやや乱暴な拍手で祝福してくれる。杏奈は昔からそうだ。俺の事をまるで自分の事のように喜んでくれる。俺が喜べば一緒に喜んでくれて、悲しいときは一緒に泣いてくれた。

 俺たちは、一心同体と言っても過言ではなかった。

「なんか、お前の方が俺より喜んでるな……そんなに嬉しいか?」

「当たり前じゃん! お兄ちゃんがやっとみんなの前で活躍できるんだよ? 今まで……丹精込めて育ててきた甲斐があったって感じ!」

「おい、お前は俺の親かよ……まぁ、家事の面では育てられてるも同然だが……」

「でしょ! そう思うなら私のために全力で頑張りたまえよ、お兄ちゃんっ!」

 そう言って杏奈はバシバシと俺の肩を叩いてきた。


 ……ああ、こんなに俺の事でこんなに喜んでくれるなんて、俺は良い妹を持ったものだ。

 毎日、こんなに美味しい料理を作ってくれて、俺の帰りを待っていてくれる。そして、また明日も頑張れる。こんな日常がずっと続いてくれたらどんなに良いだろうか。


「あ、そういえばお兄ちゃん、西高ってあの人いるんじゃなかったっけ。ほら……あの中学の時にお兄ちゃんとライバルだった……西崎さん?」

「ん……ああ、あいつも週末の試合に出るってさ。久しぶりにあいつとサッカーするから楽しみだよ、俺も」 

 西崎とは中学時代、同じサッカー部だった奴の事だ。お互いにエース候補として競い合い、いわゆるライバルというやつだった。

 あいつも俺の事を意識していたようで、西崎の奴はプライドが高いのか常に俺へ突っかかってくるような事ばかりして……今思えば正直面倒な奴だった。

 まぁ、最終的にはあいつがレギュラー入りを果たしたためそれ以降は俺に絡んでくる事もなかったが。


 ……正直な話、あいつさえいなければ、消えてしまえばレギュラーになれたのに、とあいつを妬んだ事も無かったわけではない。

 だが、今はそんな事は思っていない。俺は杏奈を喜ばせる事だけを考えればいい。一番になる事は大して重要じゃないからだ。


「でも、あの人……私たちの代でも女癖悪いって有名だったよ。私もお兄ちゃんの中学の試合見に行ったときに何回も声かけられてナンパされてさ! マジでキモかったぁ、あいつ」

「おいおい、女の子がそんな言葉使いするなよ……女癖が悪いのは事実ではあったが」

 西崎の女好きは校内でも有名だった。それこそ後輩の代にまで噂されるほどだ。

「あんな奴に絶対負けないでよね、お兄ちゃん! 打倒、西崎だから!」

「あのな……サッカーってチームで戦うんだぜ、西崎個人と戦うわけじゃねぇんだから」

「じゃあ、西高ごとぶっ殺しちゃえ」

「あのな……練習試合は戦争じゃねぇっての……」

 杏奈のおでこに突っ込みとしてデコピンを食らわせ、俺は大きく溜息をつく。全く、杏奈はサッカーの試合を何だと思ってるんだか。


「え? でも考えてみてお兄ちゃん。勝負事は全部、戦争じゃん」

「……は?」

 杏奈が突然、きょとんとした表情でありながら異常に冷たい声で言う。

「サッカーも野球も……恋愛も戦争。相手を確実に滅ぼさなきゃ自分が死ぬの。だから、お兄ちゃんは相手を……西高全員を殺すつもりでやらなきゃ、駄目だよ?」


 杏奈はうっすらと笑みを浮かべながらそう言った。その笑顔はまるで壊れた人形だ。

 背中にゾッと寒気を感じ、額から汗が流れ出る。いつもの精神崩壊とも違う、何を言ってるんだこいつは。


「でもね、どんな戦争でもお兄ちゃんには私がいるから安心して。誰にも邪魔なんかさせない、絶対に勝たせてあげるから……ね?」

 杏奈が俺の耳元で囁く。

 俺はゴクリと唾を飲み込む。今感じているのはただ1つ、狂気。


「……杏奈、お前」

「だーかーら! お兄ちゃんには勝利の女神・杏奈ちゃんが付いてるから安心してって事! 分かった?」

「……おう」

 俺は反射的にそう答えてしまう。

 なんだ、今一瞬だけ見せた壊れた人形のような笑顔は。普通じゃなかった。

 杏奈の表情じゃない、そもそもあれは正常な人間が浮かべられる表情じゃなかった。


「……あ、そういえば、さっき和彦から和菓子を貰ったんだった。俺は食わないから全部やるよ、いつも通り」

「わぁ! 和菓子だ、和菓子! ほんとこの美味しさが分からないなんてお兄ちゃんもったいないよーっ! お父さんとお母さんにもお供えしてあげようっと」

 杏奈は俺から和菓子の箱を奪い取るようにして持ち去る。本人曰く月に1度の贅沢らしい。その時、俺は和彦のあの言葉を思い出す。それは鐘のように頭の中で何度も反響する。


『なぁ、祐介。杏奈ちゃんの事、しっかり見てやって、話を聞いてやれよ。何かが起こる前ってのは……何かしらの前兆が有るもんだ』


『ちゃんと目を逸らさずに見つめてやれよ、それに気付けなきゃ……救えるもんも救えねぇ』


 俺の中で、その鐘がガンガン鳴り響いた。それは俺に知らせている、この日常の、何かが着実に狂っていると。


「……まさかな。有り得ない」

 余った和菓子を両親の祭壇に供え、手を合わせて静かに祈る杏奈を横目に俺は呟く。


 そして、4日後の7月7日、試合前日。

 全ての歯車は狂い始めた。

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