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第3話 日常に潜む狂気

【7月2日 早朝:塚原 祐介】


 ジリリリリリ……。


 朝5時、目覚まし時計が部屋で騒ぎ立てる。

 今日も朝練がある為、こんな朝早くに目覚まし時計に起こされる事になっている。


「ぐっ……うっせぇなぁ」

 昨日の疲れがまだ身体に染み付いており、目覚めが普段以上に悪い。このまま2度寝する事ができたらどれだけ幸せだろうか……。


 ガチャッ。

「お兄ちゃん、もう5時過ぎ。そろそろ起きないと朝練遅れちゃうよ?」

 なかなか起きてこない俺を起こしに杏奈が部屋に入ってくる。杏奈は地元の中学校に通っているのでこんなに早く起きる必要はないのだが、俺の朝食や弁当を作るために毎日早起きしてくれているのだ。

「あぁ……すまん。着替えたらすぐ下に行くよ」

「うん。もう朝ご飯できてるから、冷めないうちにね~」

 制服の上にエプロンを巻いた杏奈は部屋から慌ただしく出て行く。この家の家事全般をこなす杏奈は家では常に慌ただしい。母が死んでからは俺の母親代りにもなってくれているのだ。

 家事を任せきりにしてしまい申し訳ない気持ちもあるが、杏奈は何一つ文句を言った事はない。

「ふぁっ……今日も頑張るか……」

 欠伸を噛み殺し、俺はだらだらと制服に着替え始めた。


 リビングへ下りると、テーブルの上にはすでに豪勢な朝食が並べられていた。白米、卵焼き、焼き魚……どれもできたての美味しそうなものばかりだ。

「おっ、今日もうまそうだな」

 俺は椅子に腰を下ろしながら言う。

「そりゃ、お兄ちゃんが今日も元気に過ごせるように美味しいご飯作るのが私の役目ですから!」

 ふふん、と杏奈は胸を張ってみせる。我が妹ながら可愛らしいと思ってしまう。

「こりゃ、杏奈は良いお嫁さんになれそうだな? 俺もすっかり安心だ」

 俺は笑顔で杏奈に言う。


 しかし、この言葉が杏奈にとっての『引き金』になるとは、この時の俺は気付く事ができなかった。


「えっ、お、お嫁……」

 俺の言葉を聞いた杏奈は突如、顔を真っ赤に染めた。

「お、お嫁だなんて……私はずっとお兄ちゃんのそばに……」

「いやいや、兄妹で恋愛なんて……気色悪い。子供じゃないんだからさ。いずれは俺だって誰かと結婚するんだぞ? それでも杏奈が付いてくるのか?」

「……」

 杏奈は不機嫌そうに黙り込む。

 実は杏奈は昔から兄の俺に異常に愛着があった。それこそ小さい頃から『結婚する!』だなんてよく喚いていたような気がする。それに同年代の男子には昔から興味のかけらもなかった。

 ……両親が死んでからは更にその気質がエスカレートしてきている様にも見える。


 だが、当然ながら兄妹で愛を育む事はできない。

 杏奈もそんな事は分かっているはずだが、最近になって尚更、兄として心配になってきた。中学生にもなって妹が同年代の男子とまともに恋愛もできないのは兄としては不安だ。

 ……丁度良い機会だ、ここでガツンと言っておこうと俺は思う。


「いいか? 杏奈だってな、きっといつかは素敵な男と出会って結婚するんだぞ。中学生にもなってお兄ちゃん、お兄ちゃんって……正直、引くぞ? いずれは他の男と結婚して、子供を産んで、幸せに暮らすのが普通……」

「……そんなっ!」


 ガタッ!

 テーブルが杏奈の方へ一気に傾いた。それは杏奈がテーブルに手を思いっきり叩きつけた衝撃によるものだった。

 俺のカップに入ったコーヒーがその勢いで盛大にテーブルに溢れ、染みを作る。


「お、おい……杏奈」

 ……ああ、まただ。また始まった。

 俺は心の中で、溜息をついた。

 突然の杏奈の暴挙、だが俺は心の中では大して驚いてはいなかった。


「……あ、ごめん……なさい。私……一体、なにしてるんだろ、えへへ……ごめん、すぐ片づけるから」

 杏奈は俺の声で我に返ったのか、溢れたコーヒーを急いで布巾でふき取り始める。その姿はまるで、テーブルを叩いたのとはまるで別人格だったかのようだ。

「……いや、いいんだ。俺の方こそごめん……朝からする話じゃなかった。それより早く食べよう、冷めたらもったいないだろ?」

 俺は作り笑顔で対処する。

「……うん! そうだね! 全く、お兄ちゃんが変な話するから手が滑ったんだよ!」

「おいおい、手が滑ったってお前……すっげー馬鹿力だったじゃねぇか」

「う、うるさいなっ! 女の子に馬鹿力とか言うな! 全く、デリカシーゼロなんだから……」

 そんな馬鹿なやりとりをしながら、俺たちは黙って残りの朝食を済ませた。


 妹が一瞬だけ見せる、凶暴性。

16年間一緒に暮らしてきた兄の俺だからこそ知っている杏奈のもう1つの面があった。それは、杏奈が本当にたまにだが、精神が極端に不安定な状態になり、凶暴性が高まる。

 前触れはなく、会話の途中で突如激しく泣き出したり、怒ったりする。

 それが始まったのは10年前の夏休み、妹の親友だった女の子……『優姫』が突如、行方不明になってからだ。これが『K県児童行方不明事件』……通称『夏の神隠し事件』と呼ばれ、一時期マスコミによって大きく騒がれた事件だ。


 結果的には誘拐なのか、もしくは本当に神隠しなのかも分からないまま事件は迷宮入りし、今でも優姫の死体すら出てきていない。

 そして、その事件のショックが杏奈の精神を今も蝕んでいるのだろう。

 世間では10年前の事件などとっくに飽きられ、埃を被っている。とっくに終わった事件だ。

 だが、妹の中ではまだこの事件は終わってなどいなかった。今も心の奥に深い傷跡を残している。それが杏奈の精神を蝕んでいるのだ。

 ここ数年は更に精神のバランスが崩れ始め、今朝の俺の些細な言葉でも杏奈は異常に逆上してしまう。


「杏奈、今日は練習遅くなりそうだから先に飯食ってろよな。遅く飯食うと太るんだぞ」

「えーっ、それ本当なのー? お兄ちゃん帰ってくるまで待ちたいけど……うーん、でもやっぱり太りたくないなぁ……りょーかい!」

 1度、地元の精神科で診察してもらったが異常はなし。学校からも何の連絡も受けた事が無いので、恐らくこの症状が発症するのは兄である俺の前だけ、謎だらけの症状であった。


 ……俺は杏奈の心の闇に対しては無力だ、何もできない。

 ただ、それが10年前の事件が原因の精神的なものであるなら、俺がそれを忘れるくらいに杏奈を幸せにしてやる事で傷が癒えるんじゃないか? 今はそう捉えていた。

 不純かもしれないが、名門のサッカー部に入ったのもそれが理由だ。杏奈を喜ばせたい、その一心だ。杏奈は昔から俺が活躍する事を誰よりも喜んでくれるから。


 杏奈には甘えっぱなしだ。だから恩返しがしたい。

 俺は杏奈を幸せにするためなら何でもすると、そう心に強く誓ったんだ。


「……あっ! やっべ遅刻する!」

「あ!お兄ちゃん、朝はちゃんとお父さんとお母さんに手合わせてよ! バチ当たるよ!」

「悪い!マジで遅れそうだから、また今度!」

「毎朝それじゃん! 全くもう……」


 杏奈の小言を背に、俺は急いで玄関を出る。

俺と違い杏奈は毎日律儀に両親の遺影の前で祈りを捧げ、供物まで用意している。

 ただ俺は両親が死んでから、まともに祈りなど捧げた事はない。

 何故なら、両親の写真を見ればとてつもない寂しさと喪失感に襲われる気がして……とてもそんな気分になれなかった。


 子供なのは分かっている。

 そんな俺を見てか杏奈は『もっと明るい雰囲気のものが良いかな?』という理由で古びた仏壇を捨て、小綺麗な祭壇を用意してくれたが、それでも俺の気持ちは変わらなかった。


「父さん、母さん、ごめん。けど、俺と杏奈は幸せだから心配しないで。杏奈は俺が守るから」


 俺はそう空に向かって告げ、学校に向け走り出した。

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