ファルカ・アレインという本名を聞いても、なかなか俺の頭にはぴんと来なかった。
あまりにも今まで「啼鶯館の翡翠」というレッテルの方が先に来ていて、彼女に本名があるかどうか、までも気にしていなかった。
女将からもらったメモ書きを元に、俺は彼女の家に向かった。
郊外だったが、十数軒の家や、全てをまかなう雑貨屋があるくらいの町。
そこにひっそりと彼女は住んでいるらしい。
だが女将の書いてくれたメモではどの家かまでははっきりしなかった。そこで鞠をついて遊んでいる少女に声をかけてみた。
「ちょっと聞いていいかな」
「……」
少女は鞠をさっと抱えると、身体を固くした。
「いや、あの…… 友達を訪ねて。ファルカ・アレインさんの家はどこかな?」
「え、うち?」
少女は目を丸くした。
「え、君の?」
俺もそう言って目を丸くした。
「ファルカさんの娘さん?」
彼女は黙ってうなづいた。
歳の頃は十歳かそこら。
クイデとそう変わらないくらいの。
「母さんの知り合い……?」
「昔のね」
そう。
もう彼女と実際に会ってからは十年以上経っている。
子供の一人二人居てもおかしくはない。
となると亭主が居るのか?
「お父さんは?」
「うち、母さんだけよ」
「そう。じゃあ、カイシャル・セルーメ小父さんが来た、って言ってくれない?」
うん、と少女は家に戻っていった。
俺はその扉の前に立ち、反応を待つ。
少しして、ゆっくりと扉が開いた。
「セルーメ様……!」
「久しぶり、翡翠嬢」
お入り下さい、とファルカにうながされる。
見渡すと、二部屋だけの質素な家だった。
だが中は必要最低限のものは揃っているし、掃除もできている。
そしてテーブルの上には花も慎ましく飾られていた。
その二つしか椅子の無いテーブルに、俺はうながされた。
「今お茶を用意致しますので、少々お待ちくださいましね」
そういう彼女の所作は、非常にゆったりとしていた。
昔見た時より痩せてもいた。
「翡翠――」
「普通に名前でお呼びくださいな。今はあの頃貯めたお金と刺繍の仕事で細々と食いつないでいるただの女ですから」
刺繍。
そう言えば、テーブルクロスの端にはシンプルだが美しい花の意匠の刺繍がされている。
「いい腕ですね」
「一応、それで食べておりますので」
言いながら、彼女は茶を俺の前に置いた。
これもまた、丁寧に淹れたことが判るものだ。
葉自体は安いものだろう、だが淹れ方が丁寧なのだ。
「それで、今日は一体何の御用ですか?」
彼女はいきなり核心を突いてきた。