それに気付いたのは、もう一人居た。
「……貴方」
テルガ男爵夫人ホルテは不安げな顔を、彼女は夫に向けた。
「うん。一度部屋に戻ろう」
夫のテルガ男爵レヒトは次第に濃くなってくるこの匂いに覚えがあった。
彼等は医師と看護婦の夫婦である。
領地を持たない男爵は、何かしら自身の手に職を持つのが普通だった。
それが彼にとっては医師であり、妻である彼女は爵位の無い平民の出である。
彼等は元々華美な装いを多く持たず、慣れもしないことから、この日は下着の上に借りた上着を着けている状態だった。
そのせいか、足どりも軽く、男爵位の者が集められている一画へのやや長い廊下を足早に進むことができた。
男爵位となると、大広間から遠い部屋の、区切られた一画に背もたれの無い椅子を並べた簡易寝床を作られているだけである。
彼等はそれに対し何の文句も無い。
そもそも普段がそう変わらない環境で生きているからだ。
とは言え、中には男爵と言っても成功した実業家も居り、ぶつぶつと狭い空間に寝かされたことに文句を言っている者も居るが。
テルガ男爵夫妻は仕事用の鞄の中身を確認し、再び大広間へととって返す。
そして再び中に入ると。
「あ、テルガ先生!」
巨体が彼の元に突進してきた。
慌ててテルガ医師は身体をかわしたら、そのまま扉にぶつかってしまったのは仕方がなかろう。
「すまない。どうしましたか」
とりあえず夫人の方が助け起こす。
「いーえ、実は、友達のナルーシャ…… スルゲン夫妻から、先生を探そう、と言われているんですぅ」
「私達を?」
「はい~。何か甘い匂いがするけど何なのか判らないから、と。何なんですかねえいったい」
テルガ医師は妻とうなづき合う。
彼はこの匂いの正体を知っていた。
このまま放っておくと、おそらくは。
「ああああああああ!」
それまで椅子で頭を抱えてうずくまっていた女性が、唐突に金切り声を上げた。
「いかん、発作だ」
「はいっ」
二人は声の方へと駆けて行く。
だが、人混み、しかも自分より身分の高い爵位の者ばかりで、なかなか上手く通ることができない。
「通して下さい!」
声を張り上げるが、借り上着のまま鞄を持つ男爵に、なかなか高位の貴族達は道を空けようとしない。
「私は男爵である前に医師だ! そこの方は麻薬中毒の発作だ! そのままだと大変なことになるぞ!」
「何だって」
その声を王は聞きつけ、こう言い放った。
「すぐにその医師を通すがいい!」
さすがに王の声にはしぶしぶながらも道が開いた。
夫妻は天井に向かって叫んでいる女性が振り回す腕を掴むと、手早く注射をした。
「今は何を注射したのかね」
王は近づき、医師に問う。
「眠らせました。それ以上のことはしておりません」
「麻薬の禁断症状の発作というのは確かか?」
「はい。自分はかつて内乱の際に従軍した時に患者の対応の経験をしております」
戦場の痛み止めに使った麻薬の虜になってそのまま中毒になってしまう兵士というものを彼はよく見てきたのだ。
「先生!」
そこにティミド・スルゲンとナルーシャもやってきた。
王の存在に一礼をすると、彼等は先ほど赤い印をつけた座席表をテルガ男爵に見せる。