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氷室霧華を語る者

とある夜。長い髪にベレー帽、そして着物姿の女がいました。背丈は高く、顔立ちも端麗で、美人と言って差し支えないようでした。

 しかし少々問題があるとすれば、彼女はなかなかに痩せていて、健康が心配になるような、暗い面持ちをしていました。

 さて、どこに行こうか?彼女の表情は、空の色と一緒に余計に曇るようでした。曇天、雨など降らずとも空は曇って、夜のネオンの渦の中へと、その曇り空は誘うのでした。

 新宿。新宿駅、東口。その駅は世界一の往来の数と、世界一の迷路、迷走、あるいは混沌を作っているようです。

 歌舞伎町に、行ってみようか。それか、あるいは。

 てんてんてん、てんてんてん。そして。

「いらっしゃいませ~!あら、初めてお会いしますね~!」

 そこは、新宿は新宿でも、二丁目というネオン街の、古くはゲイバーから始まった、業の渦巻く幻想郷でした。

「……空いてますか?」

「見ての通り空いてるわよぉ、でもそうね、お客さんがいなくなったら閉めちゃうから、お姉さんが来てくれてよかったよかった。あ、煙草は吸います?」

「いえ」

 席に着き、酒を頼み、温かいナッツが出された。それをゆっくりと味わって。

 (なんだこれ……)

 誰に対する敵意でもなく、彼女は頭の中で不満を吐いた。そして、財布の中と酒の値段を確認し、結局大して長居もせずに、店を出る事にしてしまった。

「あら、もうお帰り?お名前を伺ってもいいかしら」

 男なのか女なのかよく分からない店員は、領収書にペンを走らせながら、本名じゃなくていいからね、と付け加える。

「キリカ……ヒムロキリカです」

「キリカちゃん!またお待ちしてます~!」


 キリカは、少し顔を赤くしていた。恐らくそれは酒のせいだろう。

 「ああ……」

 歌舞伎町。これまた違う色の、業の渦巻く狂想郷。

 行ってみようか。キリカは暫く歌舞伎町を歩いた。そして辿り着く。そこには何があったか。

 寂れた、時代錯誤な。まさかこんな所にあると思わないような。

 雀荘……酒に酔った頭で、麻雀を……

 そして。


「ツモ」

 結局キリカは、難なくその修羅場を乗り越えてしまう。そんな成功。成功に成功を積み重ねた先になにがある。

「何も、ない」

 本当にそうなのだ。では、では自分はどこを目指せばいい?退屈を良しとしない自分の自我。自分が自分だと思っている、自我らしきもの。それが悲鳴を上げている。息が詰まりそうだと。自分はいったい誰なんだ。自分はどこに行けばいい。自分は……

「自分じゃ、なくなればいい」


 ネットカフェでパソコンをいじった。自分というものを、何か別のものに移し変えてしまおうじゃないか。

 名前の表記は何にしようか。笑ってしまうような綺麗な字を使ってやろうか。

 氷室、霧華。

 手記のタイトルは以下のように記された。

「氷室霧華を、騙る者……」

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