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第34話

――それから。


「じゃあ、俺はいってくるから……」


「パパ、お仕事、ダメーッ!」


玄関で、靴を履いた海星に娘が抱きつく。


響希ひびき、ダメだよ。

パパはお仕事なんだから」


「イヤーッ、パパ、ひびきとあそぶのーっ!」


どうにか海星から響希を離そうとするが、がっちり抱きついていて離れない。

それどころか。


「ぱー!

ぱー!」


腕の中の息子、星哉せいやまで手を伸ばして海星に抱きつこうとする始末。


「お前たち……」


必死に我慢しているのか、子供たちを見る海星の目には僅かに涙が光っている。


「でも、パパはお仕事に行かなきゃいけないんだ!

ごめん!」


とうとう海星は泣き――真似をしながら、勢いよくドアを開けて出ていった。


「パパーッ!」


「あぅーっ!」


縋るように響希と星哉が手を伸ばす。

もう、そこで私が限界。

堪らなくなってくすくす笑っていた。


「パパ、いっちゃった……」


「あぅ……」


悲しそうに子供たちが私に抱きついてくる。


「そうね、いっちゃったね」


子供たちを宥めながら部屋の中へ戻る。

どうにか笑いを止めたが、それでも思い出すとまた笑いそうになった。

今日だけじゃなくほとんど毎日これなのだ。

笑うなというのが無理だろう。


「じゃあ今日は、今から『おさるのウィッキー』の映画を観て、お昼はお弁当作って公園で食べようか」


「ウィッキー!

お弁当!」


「うぃー!

うぃー!」


みるみる響希の目の色が変わっていく。

星哉もウィッキーが大のお気に入りなので大騒ぎだ。


「じゃあ、おとなしくこれ観ててね」


リビングの大画面テレビに、もう何度見たかわからない映画をかけてやる。

これで一時間は確保できた。

このあいだに私も少し、作らせてもらおう。


長女の響希は三歳、長男の星哉は一歳になった。

海星は響希が幼稚園に上がるまでは育休で休みとか言っていたが、結局じっとしているのは性に合わず、二年前にずっとやりたかったソーシャルゲームの会社を起業。

今では業界トップ10に入るまで急成長を遂げている。


私はといえば響希を身籠もっているときになにかしたくてキットで買ったあみぐるみ作りに嵌まり、今ではハンドメイド作家として活動していた。


「ママー、ウィッキー終わったー」


「そうだねー」


編み針を置いて立ち上がる。


「じゃあ、ママはお弁当を作るから、もうちょっとふたりで遊んでてくれる?」


「わかった」


「うぃ」


頭を撫でてやるとふたりは嬉しそうに目を閉じて笑った。


キッチンに立ち、リビンで遊ぶ子供たちに目を配りながら調理する。

響希が生まれるのにあわせて引っ越したこの家は、対面キッチンだ。

子供の顔が見えたほうがいいもんな、と海星が決めた。

しかし対面とはいえ調理台の向こうは低い棚になっていて、手元が見えないうえに多少散らかしてもわからないようになっている。

そういう配慮が嬉しい。


「おじい、さん、が、おばあ、さん、の」


散らかったおもちゃの真ん中で、響希が星哉に絵本を読んでやっている。

響希はよく喋り、もうすでにひらがななら読めるようになっていた。


「けーき、を、たべ」


……ケーキ?

そこはリンゴだったはずだ。

ひらがなが読めるとはいえ、完全ではないのでときどきオリジナルストーリーが始まる。

そういうのがまた、おかしかったりする。


レジデンスの部屋はミニマル主義かってくらいものがなかったが、この家では溢れていた。

子供が生まれたからというのはある。

しかしそれ以上にこのリビングは、変わった海星そのものなんじゃないかと思っている。

前の海星はあのリビングみたいに味気ない、そんな人生を歩んでいたんじゃないだろうか。

それが私と結婚し、子供が生まれ、満たされた姿がこれなのだ、きっと。


できあがったお弁当を持って近くの公園へ出掛ける。


「ママ、おいしいねー」


お弁当を食べながら響希はにこにこ笑っている。

公園でお弁当が響希は大好きなのだ。


「ありがとう」


響希の口もとについていたケチャップを拭い、星哉にもごはんを食べさせる。

食べ終わってしばらく遊び、家に帰り着いたタイミングで子供たちは寝落ちた。


「じゃー、もう少しやりますかね」


コーヒーを淹れてきて、また編み針を握る。

あみぐるみはそこそこの収入になっていた。

海星は意外な才能があったんだなと驚いていたが、私自身も驚きだ。


「ママ……」


そのうち、響希が起きてきた。


「おはよう」


まだ眠いのか、私に抱きつきぽすっと胸に頭を預ける。


「パパは……?」


「まだ帰ってきてないよ」


「うーっ」


それで機嫌が悪くなっていくのは、響希がパパ大好きっ子だからだ。

というかうちは海星が子供たちを甘やかせるから、ふたりとも私より海星が好きなんだよね。

ちょっと妬けちゃう。


「んー。

じゃあ、パパを迎えに行こうか」


「ほんと?」


ぱっと顔を上げた響希はもう、上機嫌になっていた。

本当にチョロくて助かる。

今から準備してタクシー呼べば、ちょうど終わる時間だと思うんだよね。

ちなみに海星は絶対に定時で帰るし、よっぽどのことがなければ飲み会にも行かない。

そんな時間があれば子供のために使うと、一貫している。


星哉も目を覚ましたので準備をし、呼んであったタクシーで家を出る。

海星に連絡を入れようかと思ったが、やめておいた。

いきなり行って驚かせたいもんね。


海星の会社はオフィスビルに入っているので、ロビーで待たせてもらう。


「響希ちゃん、パパを迎えに来たの?」


「うん!」


ガードマンのおじさんに話しかけられて、にっこにこで響希が答える。

しょっちゅうこうやって迎えに来ているので、もうすっかりなじみになっていた。

……のはいいが、響希は誰に似たのか誰にでも愛嬌を振りまくので、変な人間に目をつけられないかちょっと不安だ。


「パパーッ!」


そのうち、エレベーターから降りてきた海星を見つけ、響希が駆け寄る。


「響希!

ちょっと待ってって!」


慌てて追いかけるが、意外と追いつかない。

私が響希を捕まえるよりも早く、響希は海星に抱きついた。


「今日も迎えに来てくれたのか?」


「うん!」


響希が満面の笑みなのはもちろん、海星の顔もデレデレに崩れている。


「ぱー!」


「はいはい、星哉もありがとうな」


私の腕の中で僕もいるんだよと星哉が声を上げ、海星は響希を抱いて立ち上がった。


「食事して帰るだろ?」


「そうですね」


ビルを出る私たちをみんな、微笑ましそうに見ている。

ここではもう、当たり前の光景なのだ。


響希のリクエストで、お気に入りの洋食店へ徒歩で向かう。

響希はそこの、オムライスが大好きなのだ。


「今は中国企業だと思うと不思議ですね」


途中、見えたマグネイトエステートの広告看板を見上げる。

不正の批判を浴び、社長は退陣。

その後、まったく関係ない外部の人間なりに社長の座を譲ればよかったのだが、なにを思ったのか一士さんを任命した。

おかげでさらなるバッシングを受け、信用を完全に失う。

最終的に中国企業に買われたとなれば笑えない。


「近々、買い戻す……って言い方も変だが、買い戻そうと思ってるんだ」


「え?」


思いがけない告白に、ついその顔を見上げていた。


「やっぱりこの会社の社長になりたかったとかじゃない。

マグネイトエステートの名を背負って、好き勝手やってる奴らが許せない」


会社を買った中国企業は、違法すれすれのことをやっているとSNSでは度々話題になっている。

海星はそれが、許せないのだろう。


「なんだかんだいっても、この会社に愛着があったんだな」


自嘲するように海星が笑う。

でも。


「いいと思いますよ、そうやって昔の海星に大事なものがあったのは」


私と出会う前の海星はなにも持っていないように感じていた。

しかしその人生の中で大事なものがひとつでもあったのなら、それだけ彼は少しでも幸せだったんじゃないだろうか。


「会社を取り戻しましょう。

それで前よりずっといい会社にして、お客様も社員も笑顔に溢れる会社にしましょう。

私も手伝います」


「頼もしいな」


足を止めた海星がこちらを向く。

なにをするのかと思ったら、ちゅっと唇が重なった。


「あー!

パパー!」


響希が騒ぎ出し、一気に顔が熱くなる。


「なんだ、響希もちゅーしてほしいのか」


「きゃーっ!」


海星が響希にキスし、歓声が上がる。

再び歩き出し、そっと握られた隣りあう手は幸せそうに揺れていた。



【終】

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