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第32話

それから。

海星は退職願を出したが社長に握りつぶされていた。

さらに譲歩しているつもりなのか専務の座を約束してきたが、一士本部長の尻拭いをこれからもさせる気満々なのが丸わかりだ。


「……はぁーっ」


夕食を食べながら海星が憂鬱なため息をつく。

その気持ちはわかるだけに、苦笑いしてしまう。


「大変ですね」


「そうなんだ……。

いや、花音も大変だけどさ」


海星も苦笑いを浮かべる。

私はといえばセクハラ上司からの安全確保のための有給から、無期限在宅勤務が命じられていた。

そんな上司がいた職場に出てくるのは嫌だろうという配慮だが、実質は解雇だ。

海星に対する見せしめだが、それが火に油を注ぐ結果になっているのに、彼らは気づいていない。


「私は砺波さんに任せておいたらいいので、大丈夫です」


私のほうは砺波さんにお願いし、訴える方向で動いていた。

私ひとりでは泣き寝入りするしかないが、海星さん相手ではそうはいかない。

すぐに社長たちは、売ってはいけない相手に喧嘩を売ったと気づくだろう。

それだけ彼らは、海星を侮っていたのだ。


「花音を苛めたお礼もまだしてないし、ちょーっと嫌がらせでもして怒らせるかな……」


また、海星が憂鬱なため息をつく。

私としても社長たちには酷い目に遭ってほしいが、高志の前例があるだけに少し同情してしまう。

高志は起訴され、実刑判決が下るのは確実だと言われていた。

彼としては軽い気持ちで周囲の人間を騙していたんだろうが、これでもう前科者になる。

それも私が海星と出会ったからだ。

海星が高志を探し出して警察に突き出さなければ、彼はまだのうのうと普通に生活を続けていただろう。


「無理はしないでくださいね」


「ありがとう、花音。

しかし食事があまり進んでないようだが、どこか悪いのか?」


心配そうに海星の顔が曇る。


「あー……。

ちょっと食欲、なくて」


せっかく気分転換に連れてきてくれたフレンチだが、私の食べるペースは遅い。

なんとなく身体の調子がおかしくて、もりもり食べるという気にはなれなかった。


「病院、行くか」


私の答えを聞いてますます海星が心配そうになっていく。


「あー……。

大丈夫、です。

……たぶん」


曖昧に笑って断る。


「少しでも悪いなら早めに病院に行ったほうがいいぞ」


「そうですね。

でも、大丈夫ですから」


なんとなく原因に心当たりがある。

しかしまだ確定させるには時期が早いので、もう少し言わないでおきたかった。




その日は砺波さんが所属している事務所で、右田課長――右田さんとの話し合いの場が持たれていた。


「あれは無理矢理ではありません。

彼女も気持ちのうえでは同意していたはずです」


すっかりやつれ、こんな状況になっているというのに右田さんはまだ、一士本部長を庇うんだろうか。

彼は子会社のマンション管理会社へ出向させられ、酷い扱いを受けていると聞いていた。


「右田さんは一士本部長に命じられて、させられたんですよね?」


私の問いで彼は一瞬、身体を強ばらせたが、すぐに首を激しく横に振った。


「違います。

私の意志でやりました。

全部、私の一存でやったことです」


なぜこんなに、彼は一士本部長を庇うんだろう。

誠実な彼らしくない言動は、私を戸惑わせるばかりだった。


高野森重工たかのもりじゅうこう


海星がその名を口にした途端、右田課長はぎくりと大きく身体を震わせた。

彼の視線がおそるおそる、怯えたように海星へと向く。

それは喋ってくれるなと懇願しているようだった。


「ああ。

元高野森重工さん、ですね。

そちらのご夫婦が右田さんには感謝してもしきれない、自分たちが首を括らずに済んだのは右田さんのおかげだと、感謝していましたよ」


その場に似つかわしくないほど、海星がにっこりと笑う。


「……どこまで知ってるんですか」


「さあ?」


海星がとぼけてみせ、右田さんはため息をついて気が抜けたように椅子に座り込んだ。


「話しますよ、全部。

もう、失うものなんてないですからね」


自嘲するように笑う右田さんはすべてを投げ出しているようだ。

尊敬していた上司のそんな姿は悲しくなる。


「あなたたちが思っているとおり、私は弱みを握られて盛重本部長に脅されていたんですよ」


脅されていたのはわかる。

でも、そんな弱みを右田さんが握られるなんて、それこそらしくない。


「当時、私はある施設の計画に関わっていました……」


続いていく彼の話は私には到底、許せないものだった。




その当時、右田さんはある施設の計画に携わっていた。

彼の仕事は用地の確保で、主に地主との交渉をしていたそうだ。

その中のひとつに高野森重工があった。


高野森重工は戦後まもなくから続く、町工場だ。

作られた部品はロケットにだって使われた。

立ち退きには渋い顔をされた。


「ひい祖父さんの代からここでやってるんだ。

それに従業員の生活もある」


提示された金額は到底、全従業員の退職金すら賄えるものではなかったのだ。

社長が渋るのは理解できた。

それに実直な社長の人柄を右田さんは尊敬していた。

建つ建物は利権絡みのもので、別になくてもいいものだ。

しかし、会社からの命令には逆らえず、嫌々ながら汚い言葉も使って半ば、脅した。

社長がようやく折れてくれたときは、ほっとしたと彼は言っていた。


「苦労かけたね。

これで俺も楽になるし、右田さんも楽になりなよ」


その言葉にはっとした。

社長は納得してくれたのではなく、日々苦悩する自分のためを思ってくれたのだと気づいた。

それで右田さんは――不正を、働いたのだ。


高野森重工の査定書類を偽造し、支払金額を水増しした。

これが罪滅ぼしになるのかわからないがそれでも、そうするしかできなかった。

それを、一士本部長に知られたのだ。


それからは一士本部長にいろいろさせられた。

逆らうとあの件をバラすとほのめかされる。

自分だけならいいが、高野森重工の社長には迷惑をかけられない。

右田さんは一士本部長に従うしかなくなった。


ちなみにくだんの建物は現在、ほぼ使われていない。

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