それから。
海星は退職願を出したが社長に握りつぶされていた。
さらに譲歩しているつもりなのか専務の座を約束してきたが、一士本部長の尻拭いをこれからもさせる気満々なのが丸わかりだ。
「……はぁーっ」
夕食を食べながら海星が憂鬱なため息をつく。
その気持ちはわかるだけに、苦笑いしてしまう。
「大変ですね」
「そうなんだ……。
いや、花音も大変だけどさ」
海星も苦笑いを浮かべる。
私はといえばセクハラ上司からの安全確保のための有給から、無期限在宅勤務が命じられていた。
そんな上司がいた職場に出てくるのは嫌だろうという配慮だが、実質は解雇だ。
海星に対する見せしめだが、それが火に油を注ぐ結果になっているのに、彼らは気づいていない。
「私は砺波さんに任せておいたらいいので、大丈夫です」
私のほうは砺波さんにお願いし、訴える方向で動いていた。
私ひとりでは泣き寝入りするしかないが、海星さん相手ではそうはいかない。
すぐに社長たちは、売ってはいけない相手に喧嘩を売ったと気づくだろう。
それだけ彼らは、海星を侮っていたのだ。
「花音を苛めたお礼もまだしてないし、ちょーっと嫌がらせでもして怒らせるかな……」
また、海星が憂鬱なため息をつく。
私としても社長たちには酷い目に遭ってほしいが、高志の前例があるだけに少し同情してしまう。
高志は起訴され、実刑判決が下るのは確実だと言われていた。
彼としては軽い気持ちで周囲の人間を騙していたんだろうが、これでもう前科者になる。
それも私が海星と出会ったからだ。
海星が高志を探し出して警察に突き出さなければ、彼はまだのうのうと普通に生活を続けていただろう。
「無理はしないでくださいね」
「ありがとう、花音。
しかし食事があまり進んでないようだが、どこか悪いのか?」
心配そうに海星の顔が曇る。
「あー……。
ちょっと食欲、なくて」
せっかく気分転換に連れてきてくれたフレンチだが、私の食べるペースは遅い。
なんとなく身体の調子がおかしくて、もりもり食べるという気にはなれなかった。
「病院、行くか」
私の答えを聞いてますます海星が心配そうになっていく。
「あー……。
大丈夫、です。
……たぶん」
曖昧に笑って断る。
「少しでも悪いなら早めに病院に行ったほうがいいぞ」
「そうですね。
でも、大丈夫ですから」
なんとなく原因に心当たりがある。
しかしまだ確定させるには時期が早いので、もう少し言わないでおきたかった。
その日は砺波さんが所属している事務所で、右田課長――右田さんとの話し合いの場が持たれていた。
「あれは無理矢理ではありません。
彼女も気持ちのうえでは同意していたはずです」
すっかりやつれ、こんな状況になっているというのに右田さんはまだ、一士本部長を庇うんだろうか。
彼は子会社のマンション管理会社へ出向させられ、酷い扱いを受けていると聞いていた。
「右田さんは一士本部長に命じられて、させられたんですよね?」
私の問いで彼は一瞬、身体を強ばらせたが、すぐに首を激しく横に振った。
「違います。
私の意志でやりました。
全部、私の一存でやったことです」
なぜこんなに、彼は一士本部長を庇うんだろう。
誠実な彼らしくない言動は、私を戸惑わせるばかりだった。
「
海星がその名を口にした途端、右田課長はぎくりと大きく身体を震わせた。
彼の視線がおそるおそる、怯えたように海星へと向く。
それは喋ってくれるなと懇願しているようだった。
「ああ。
元高野森重工さん、ですね。
そちらのご夫婦が右田さんには感謝してもしきれない、自分たちが首を括らずに済んだのは右田さんのおかげだと、感謝していましたよ」
その場に似つかわしくないほど、海星がにっこりと笑う。
「……どこまで知ってるんですか」
「さあ?」
海星がとぼけてみせ、右田さんはため息をついて気が抜けたように椅子に座り込んだ。
「話しますよ、全部。
もう、失うものなんてないですからね」
自嘲するように笑う右田さんはすべてを投げ出しているようだ。
尊敬していた上司のそんな姿は悲しくなる。
「あなたたちが思っているとおり、私は弱みを握られて盛重本部長に脅されていたんですよ」
脅されていたのはわかる。
でも、そんな弱みを右田さんが握られるなんて、それこそらしくない。
「当時、私はある施設の計画に関わっていました……」
続いていく彼の話は私には到底、許せないものだった。
その当時、右田さんはある施設の計画に携わっていた。
彼の仕事は用地の確保で、主に地主との交渉をしていたそうだ。
その中のひとつに高野森重工があった。
高野森重工は戦後まもなくから続く、町工場だ。
作られた部品はロケットにだって使われた。
立ち退きには渋い顔をされた。
「ひい祖父さんの代からここでやってるんだ。
それに従業員の生活もある」
提示された金額は到底、全従業員の退職金すら賄えるものではなかったのだ。
社長が渋るのは理解できた。
それに実直な社長の人柄を右田さんは尊敬していた。
建つ建物は利権絡みのもので、別になくてもいいものだ。
しかし、会社からの命令には逆らえず、嫌々ながら汚い言葉も使って半ば、脅した。
社長がようやく折れてくれたときは、ほっとしたと彼は言っていた。
「苦労かけたね。
これで俺も楽になるし、右田さんも楽になりなよ」
その言葉にはっとした。
社長は納得してくれたのではなく、日々苦悩する自分のためを思ってくれたのだと気づいた。
それで右田さんは――不正を、働いたのだ。
高野森重工の査定書類を偽造し、支払金額を水増しした。
これが罪滅ぼしになるのかわからないがそれでも、そうするしかできなかった。
それを、一士本部長に知られたのだ。
それからは一士本部長にいろいろさせられた。
逆らうとあの件をバラすとほのめかされる。
自分だけならいいが、高野森重工の社長には迷惑をかけられない。
右田さんは一士本部長に従うしかなくなった。
ちなみにくだんの建物は現在、ほぼ使われていない。