目を開けたら海星の顔が見えた。
「おはよう」
緩く笑い、彼が口付けしてくる。
「……おはようございます」
私から出た声は酷くかすっかすでおかしくなった。
昨晩、喉が嗄れるほど喘がされればそうなる。
「昨日はごめんな、あんな酷いこと。
身体、つらくないか」
心配そうに彼の眉間に深い皺が寄った。
「あ、いえ。
大丈夫、なので」
曖昧に笑ってそれに答える。
正直に言えば身体がつらい。
しかし、仕事を休むわけにもいかないし、海星を心配させたくない。
「本当か?
かなり無理、させたし……」
項垂れて海星はかなり落ち込んでいる。
そうやって優しいから、好きなんだよね。
「全然大丈夫ですよ」
証明するように明るく笑い、私から彼にちゅっとキスをする。
途端に彼の顔が輝いていった。
「それに。
嬉しかった……とか言ったら、引きますか?」
まるで自分は変わった性癖だと披露しているようで顔が熱い。
けれどこれは、伝えたかった。
「あんなにつらい思いをさせられたのに?」
海星は完全に困惑しているが、まあそうだよね。
「こんなに怒り狂うほど海星が嫉妬してくれているんだ、……と思って」
「あー……」
長く発し、彼は宙を見ている。
「だから嫉妬をぶつけられて滅茶苦茶にされるのが嬉しかったんですが……変、ですか?」
おそるおそる上目遣いで彼をうかがう。
これで変な人だと思われたら、そのときはそのときだ。
それに海星はそれくらいで私を嫌いになったりしないと思うし。
「なんで花音はそうやって、俺を煽るようなこと言うの?」
「へ?」
なんか嫌な予感がするけれど、スルーしてもいいですか?
「でも、昨日は本当に無理をさせたし。
まだ声も掠れてるからな。
我慢する」
目尻を下げて小さくふふっと笑い、彼は私にちゅっとキスした。
「シャワー浴びてこい?
そのままじゃ気持ち悪いだろ」
「そうですね……」
いつもどおり海星が身体を拭いてくれているとはいえ、昨晩は髪も洗っていないしシャワーは浴びたい。
「海星はいいんですか?」
「俺?
俺は昨日、浴びた。
花音の荷物も回収してきてる」
彼が親指で指した先には私のキャリーケースが置いてあった。
私は意識を飛ばすほどだったのに、あれからそれだけ動いているなんて海星はどれだけ体力があるんだろう?
「じゃあ、お言葉に甘えて」
渡されたバスローブを羽織り、浴室へ向かう。
「うわっ」
鏡に映った私の身体には、いつも以上にキスマークがついていた。
「やりすぎ」
とか言いつつも、これが海星の愛だと思うと嬉しくなる。
浴室から出たら、朝食の準備が調っていた。
「洋食にしたがよかったか?」
「はい」
促されて海星と向かいあって座る。
私がシャワーを浴びているあいだにルームサービスを取ってくれるなんて、気が利く。
ホテルの美味しい朝食を食べながら昨晩の出来事が気にかかってくる。
右田課長はすでに私が海星と一緒で、自分と帰るつもりはないとわかっていそうだが、それでも連絡しないでもいいんだろうか。
「右田課長に海星と一緒にいるって連絡入れないとですね。
心配しているかもしれません」
「もう俺が連絡入れてある。
俺が連れて帰るとも言ってあるし、この件が解決するまでは出社させないとも言ってある」
「……へ?」
思わず、変な声が出た。
海星が連れて帰ってくれるのはいいが、出社させないって?
「なんだ、不満か」
「……まあ」
じろっと眼鏡の奥から睨まれ、肯定しながらも決まり悪くクロワッサンを揉んで破壊する。
おかげでテーブルの上はパン屑だらけになった。
「同意なしでキスしてきたんだぞ?
立派なセクハラで性犯罪だ。
花音じゃなくても処分が決まって安心して出社できるようになるまで、有給扱いで休んでもらうに決まってるだろ」
特別扱いされているのかと思った。
けれどそれは海星を侮っていたんだな。
「海星って凄いです」
「普通だろ」
当たり前って顔で彼はコーヒーを飲んでいる。
それにううんと首を振った。
「その普通ができるのが凄いです」
ここまでできる上司ってそうそういないだろう。
なのにそれを〝普通〟と言って当たり前のようにやる。
本当に尊敬できる人で、こんな人が私の旦那様で誇らしい。
「そうか?
まあ、今度、花音がアイツになんかされたら冷静でいられる自信がないからな。
俺が犯罪者にならないためでもある」
今、さらっと物騒なことを言われた気がするが、スルーしておこう。
私は思いがけず休みになったのでいいが、海星はのんびり食後のコーヒーを傾けていて気になった。
「あのー、海星……?」
「俺も今日は休みにした。
会議も接待も入ってなかったからな。
それに憲司のところにも寄らないといけないし」
「砺波さんのところに……?」
どうして彼の名前が出てくるのかわからなくて、首が斜めに傾く。
「昨日の件は花音に対する性犯罪と名誉毀損で訴える」
海星は本気だ。
きっとそれくらいしないと彼の気が済まないのはわかっているし、なら私も反対しない。
しかし、気にかかることがあるのだ。
「昨日のあれ、右田課長は本気だったんでしょうか……?」
今にして思えばキスされた直後、ごめんと謝られた気がする。
私を海星から奪うつもりなら、そんな必要はない。
それに思い出せば思い出すほど、昨晩の右田課長はらしくなさすぎた。
一晩経って頭も冷えると、あれは演技だったんじゃないかと思える。
でも、なんで?
彼なら海星と揉めるのはわかっていたはず。
なのにそんな危険を冒してまで、あんなことをする必要があったんだろうか。
「そう……だな」
少しのあいだ考えていた海星もおかしいと気づいたらしく、顔を上げた。
「普段の右田課長なら人を貶めてまで自分の我を通そうとなどしない」
同意だと勢いよく頷く。
「なにかありそうだな。
調べておく」
海星がそう言ってくれてほっとした。
「時間ができたし観光でもして帰るか」
海星は早速、携帯片手に観光地を調べている。
結局、訴える話は保留になった。
事情があってもキスしてきたのは許せないが、それでも訳を聞いてから決めたい。
「近くにアウトレットモールがあるな。
買い物でもするか」
「あ、いや、買い物はいいんじゃないですかね……?」
やんわりと海星の申し出を断る。
初めて海星に百貨店に連れていかれた日、山ほど服を買ってくれたうえに、ときどきなんだかんだいって外商の影山さんに服を持ってこさせては全部お買い上げするのだ。
おかげでレジデンスのウォークインクローゼットはかなり広いのにパンクしそうになっていた。
「いや。
昨日のお詫びになにか買ってやりたいからな。
アウトレットモールで決まりだ」
携帯をポケットにしまい、海星が身支度をしだす。
「うん……はい……わかりました……」
またきっと、とんでもない量を買うんだろうなと、私が遠い目をしたのはいうまでもない。
海星の気の済むまで買い物をし、車のトランクをパンパンにしてアウトレットモールを出る。
「ふふっ」
ふと胸もとに目を落としては、嬉しくてつい笑ってしまう。
「満足してもらえたみたいでよかった」
「あっ、はい!」
くすりとおかしそうに小さく笑われ、焦って返事をする。
私の胸もとには海星が買ってくれた、ペンダントが下がっていた。
お詫びなどいいと断ったが、見るくらいいいだろと入ったアクセサリーショップで紐を結んだようなデザインのものが気に入ったのだ。
でも、悪いしと一度は店を出たもののどうしても忘れられず、結局買ってもらった。
「ありがとうございます、海星」
「いや。
俺は花音の喜ぶことならなんでもしたいだけだ」
下がってもいない眼鏡を海星が上げる。
でも、弦のかかる耳が真っ赤になっていた。
レジデンスに帰り着いた途端、見ていたかのタイミングで海星の携帯が鳴った。
「父からだ」
画面を見て彼は嫌そうな顔をしたあと、電話に出た。
「はい、海星です。
……はい……はい」
話している彼を、不安な気持ちで見つめる。
「わかりました。
じゃあ、土曜日に」
通話を終えた彼は当たりを真っ黒に染めそうなほど、憂鬱なため息をついた。
「話があるから実家に来いってさ」
本当に海星は嫌そうだが、そうなるだろう。
「なんですかね、話って」
「まあ、だいたい見当はつくけどな」
困ったように彼が小さく笑う。
……あ。
そうか。
海星が実家に呼び出されるなんて、あの話しかない。
そっと自分の下腹部を撫でる。
けれどまだ、私にはなんの兆候もなかった。