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第20話

翌日は体調が悪いせいもあって気持ちは駄々下がりだった。


「大丈夫か?

休んだほうがいいんじゃないか」


お腹の痛みを堪え、眉間に皺を寄せて彼の淹れてくれたホットミルクを飲む私を海星さんが心配してくれる。


「大丈夫ですよ。

病気じゃないんで」


平気だと言いながらも笑顔を作る余裕もない。

渡してくれた水で痛み止めを飲んだ。

薬が効いてくるまでの我慢、我慢だ。


「でもつらい人間は寝込むほどつらいんだろ?

花音も休んで寝ていたほうがいいんじゃないか」


「大丈夫ですから。

ほら、行きますよ!

遅刻してしまいます」


どこまでも心配し続ける海星さんを追い立てるようにレジデンスを出る。

心配してくれるのは嬉しいが、これくらいで休んでいては仕事にならない。


「少しでもつらかったらすぐに帰れよ」


別れるときまで彼は心配していて苦笑いしてしまう。

あんなに理解のある上司なら、部下は生理休暇を取りやすそうだ。

うちは右田課長はすぐに許可を出してくれるが、その上の部長がそれでも働いている女性はいるんだし特別扱いはできないって却下するからさ……。


薬が効いてもまだ鈍く痛むが、我慢して仕事を続ける。

今日は残業しないで帰る、遠慮せずにタクシーだって使っちゃうぞと誓っていたんだけれど……。


「飲みにいくぞー」


終業間際になって一士本部長が顔を出した。

彼は部が違うのにうちの部署にしょっちゅう顔を出しては、強引にみんなを飲みに連れていった。

今の彼のお気に入り、百合ゆりちゃんがいるのと、あとは右田課長にたかるためだ。


「ほら、オマエらも仕事切り上げて一緒に行くぞ」


一士本部長がみんなを追い立てる。

行きたくない。

それでなくても一士本部長の飲み会はアルハラが酷いし、さらに生理中で体調も悪い。

どうしても今日中に片付けなきゃいけない仕事があるからと残ってやり過ごそう。


「あ?」


ぞろぞろとみんなを引き連れ、出ていこうとしていた一士本部長が足を止める。


「おい、そこの……坂下?

いや、盛重か。

オマエ、なんで来ない?」


不機嫌そうに睨み、彼が私の席まで来る。


「あの、今日中にやってしまわないといけない仕事が残っているので……」


「は?

オレと仕事、どっちが大事なんだよ?」


そんなの、仕事に決まっている。

オレとでも言ってもらえると思っているんだろうか。


「あの、えっと」


それでも機嫌を損ねると面倒臭いので言葉を濁す。


「それともあれか?

義弟の酒は飲めない、と?」


にたぁといやらしく、一士本部長の顔が歪む。

そこでそれを持ち出されると断れなくなった。

海星さんの顔を潰すわけにはいかない。


「あ、明日でも大丈夫な仕事でした。

ご一緒させていただき、……ます」


手早く机の上を片付け、愛想笑いで立ち上がった。


一士本部長お気に入りの、近くの居酒屋へ入る。

座る前にトイレに行ってナプキンを予備で持っている夜用に変え、海星さんに連絡を入れた。


【急な飲み会になりました。

遅くなります。

帰りはタクシー使うので心配しなくて大丈夫です】


メッセージを送るだけして、既読になるかとか確認せずに携帯をバッグにしまいトイレを出る。

長く一士本部長を待たせるとなにを言われるかわからない。


「盛重さんは、あっち」


いつものように末席に座ろうとしたら、一士本部長の隣に座らされた。

離れた席で百合ちゃんが申し訳なさそうに頭を下げるのが見える。

一士本部長がお気に入りの彼女ではなく私を隣に座らせたのはきっと、今日は私をいびるのが目的なのだ。


「じゃあ。

オレの新しい義妹に。

かんぱーい!」


意気揚々な一士本部長とは反対に、微妙な笑顔でみんながおのおのグラスやジョッキを上げる。


「いやー、こんな美人な妹ができるとか、オレも幸せ者だよな。

これからよろしく頼むよ」


わざとらしく笑いながら彼は私の背中をバンバン叩いてきた。


「は、はぁ……。

こちらこそ、よろしくお願いします……」


笑顔を貼り付け、それに応える。

あんなに私のお茶出しが不満そうだった彼に美人とか言われても嫌悪しかない。

それに兄嫁を義妹だとか、ものを知らない彼らしい。

……いや。

自分を〝義弟〟といって私を従わせてきたし、都合よく弟や兄になって私を服従させたい気持ちの表れなのかもしれない。

それでも、とにかくなるべく一士本部長の機嫌を損ねないようにこの場を切り抜けなければ。

彼を挟んで向こうに座る右田課長が短く頷く。

きっと課長もいるからなんとかなる……はず。


「みんな飲めよー、飲んでないヤツは減給だからな。

それとも左遷がいいか?」


おかしそうに一士本部長はひとり笑っているが、まったく笑い事ではない。

しかも一士本部長の奢りならまだ辛抱できるが、彼は一銭も払わないどころかなにかと理由をつけてお金を巻き上げようとするので、反感しかなかった。


みんなひたすら飲みたくもない酒を飲む。

ソフトドリンクでも頼もうものなら本当に左遷させられかねない、恐怖の飲み会だ。


「な、右田。

可愛がってる部下の結婚は嬉しいよなぁ」


「はい、嬉しいです」


一士本部長から注がれた酒を右田課長が真面目な顔で飲み干す。

ちなみに右田課長は日本酒派だ。


一士本部長の攻撃が右田課長に集中しているうちに、申し訳ないが食べ物を胃に詰め込ませてもらう。

空きっ腹で大量のアルコールで悪酔いは少しでも避けたい。


「しかも自分が大切に育てていた部下を掻っ攫われるのはどうよ?」


「……へ?」


せっせとポテトを口に運んでいた手が止まる。

幸い、私の変な声は聞こえていないみたいだ。


「昇進できたら告白するって決めてたのにな。

海星なんかに持ってかれるなんて可哀想に」


わざとらしく一士本部長がため息をつく。

勘違いかと思ったが、どうも話の主役は私で間違いないようだ。


……右田課長が私を好きだった?


突然降って湧いた話に頭が混乱する。

しかもこんなふうに知ってしまうとどう反応していいのかわからない。

それに右田課長も気の毒だ。


でも、右田課長はなんでなにも言わないんだろう。

ここで私に聞かせるようにこんな話をされるのは嫌なはずだ。

いや、今だけじゃない。

彼はいつも一士本部長の言いなりだ。

それは誠実な彼としては違和感があって、ずっと謎だった。


「だいたい、あんな地味女がいきなり結婚するとか思わないよな」


ちらりと一士本部長の視線がこちらを向く。

地味で悪かったなと心の中で反論した。

でもそんな私がいいと右田課長は思っていてくれたんだ。

それは少し、嬉しい。


「ん?

待てよ。

コイツ、付き合ってる男がいなかったか?」


背後の私を一士本部長が親指で指す。

さすがにコイツ呼ばわりはムッとした。


「なー、オマエ、付き合ってた男はどうしたんだよ?」


一士本部長がこちらを向くので慌ててジョッキを掴んだ。

食べているところなど見せてご機嫌斜めにしては面倒なことになる。


「えっ、あっ、……別れました、が」


きょときょとと視線を泳がせながら曖昧に答える。

だいたい、海星さんと結婚したんだから、別れた以外になにがあるんだろうか。


「海星に付き合ってる女がいるとか聞いたことなかったし。

で、結婚相手が彼氏持ちのオマエ。

おかしくないか?」


「お、おかしくないですが」


などと答えながら声は震えるし視線も逸れる。


「あれか。

海星に金積まれて乗り換えたのか」


それは半分ノーで半分イエスなだけにどう答えていいか困った。

海星さんの子供を産むと決めたのは高志から捨てられたあとなので乗り換えたわけではない。

しかし借金の肩代わりの条件で決めたから、金を積まれてというのは当たっている。


「それしかねーよなー、海星のいいところなんて金持ってるしかねぇもん」


ぐいっと一士本部長がジョッキの中身を飲み干し、すかさず新しいジョッキが彼の前に置かれた。

酒が途切れると機嫌が悪くなるのと、とにかく早く酔い潰れさせて飲み会をお開きにしたいのでわんこそば状態でお酒が出てくるシステムになっている。


「海星さんは優しいです。

私を大事にしてくれます」


飲めと目で命令され、しぶしぶ目の前におかれた新しいジョッキに口をつけた。

顔も性格もあなたなんかよりもずっと上です、なんて言葉は飲み込んだ。

海星さんはほとんどの人間がイケメンというだろうが、えらの張った顔に細い目、分厚い唇の一士本部長がイケメンだという人は悪いがあまりいないだろう。


「アイツが優しい?

気が弱いの間違いだろ。

なあ、右田?」


下品にがはがは笑い、一士本部長が右田課長に同意を求める。

右田課長はイエスともノーともいわず、曖昧な笑顔を浮かべた。

酔っているのか、頭がぐらぐらする。

怒鳴りそうな自分を抑えようと、まだかなり入っているビールをごくごくと一息に全部飲んだ。

そのままガツッと大きな音を立ててジョッキをテーブルに叩きつける。


「……許せない」


「あ?」


その音で興を削がれたのか、一士本部長は笑うのをやめて、高圧的に私を睨みつけた。


「海星さんを笑うなんて許せない。

海星さんはあなたなんかと違って、たくさんいろいろ人のことを考えているのに!」


酔いに任せて一気に捲したてる。

誰でもない、海星さんに一番迷惑をかけている一士本部長が彼を嘲笑うのがどうしても許せなかった。


「なんだとぅ?」


一気に一士本部長が不機嫌になっていく。


「せっかくオレは優しいから、言わずにおいてやったのによ」


ジョッキを掴み、彼は中身をぐいっと飲んだ。


「どうせオマエなんて、アイツが子供を産ませるだけの道具だろうがよ」


けっと吐き捨て、一士本部長がジョッキを呷る。

ひゅっと自分の喉が、息を呑むのがわかった。

彼の大きな声で、その場はしんと静まりかえる。


「なにオマエら黙ってるんだよ。

俺は事実を言ってやっただけだろ」


ぷはーっと酒臭い息を吐き、新たに置かれたジョッキを一士本部長は掴んだ。

ばくばくと心臓が激しく鼓動し、目の前が真っ白になった。


「先に子供を作ったほうに社長の座を譲ってやるって親父が言ったんだよ。

こんなに急にアイツが結婚したのって、それしか理由がねぇだろよ」


立ち上がった一士本部長は、勢いよくビールを飲み干していく。

自分でも海星さんに私は道具だと言った。

自覚していても、人から指摘されるのはショックが大きかった。


「ああっ?

なんか言えよ、なんか」


「……そこまでだ」

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