ホテルを出発し、すぐに高速に乗った。
その後は順調に道を進み、ちょうどいい時間に実家へ着く。
もう店は閉めた時間なので、そちらの駐車場に車は停めてもらった。
「ただいまー」
「あっ、帰ってきた!」
玄関を開けた途端、茶の間から弟が飛び出てきた。
「ヒューッ!
噂どおりのイケメンじゃん」
「ちょっ、失礼だよ!」
口笛を吹く弟を軽く睨んだ。
「いいよ、別に。
実際、俺、イケメンだし」
しかし海星さんはそれに乗って軽くふざけ、許してしまった。
「言うねぇ」
にやにや笑う弟と廊下を進んでいく。
茶の間のテーブルの上には寿司桶がのっていた。
「おっ、帰ってきたか」
私たちに気づき、父は読んでいた新聞を畳んで置いた。
「おじゃまいたします」
にこやかに海星さんが頭を下げる。
「まー、座ってください。
かーさん、花音が帰ってきたぞー」
「はーい、すぐに行くー!」
家の中からぱたぱたとスリッパの音がし、まもなく母が姿を現した。
「ごめんなさいね、お待たせして」
なんだか母の言葉遣いがいつもよりも丁寧に思えるが……気のせいということにしておこう。
家族が揃ったので座り直し、海星さんを紹介する。
「えっと。
会社の上司の、盛重海星さん。
それで……先日彼と……結婚、しました」
いきなり段階をすっ飛ばして結婚したとは言いづらく、しどろもどろになってしまう。
「結婚……した?」
父たちも理解が追いついていないらしく、確認するように繰り返したあと、固まっている。
「えーっと……。
三島さんは、どうした?」
両親は高志と面識はないが、同棲していたのは知っている。
いきなり上等なイケメンが登場したものだから浮ついていたが、この状況はなにかがおかしいとようやく気づいたらしい。
「あー。
高志とは、いろいろあって別れた」
……十日ほど前に。
というのは黙っておく。
少しでも彼と別れたのはかなり前だと誤解してもらいたい。
「それでえっと、ちょっと困ったことになってたところを海星さんが助けてくれて。
親身になって相談に乗ってくれてるうちに、こう、こう、……結婚、した」
なんかいろいろ端折り、適当に誤魔化して説明する。
高志に借金を背負わされて捨てられ、そのお金で海星さんに買われたなんて言えない。
まあ、実際のところ、海星さんは一銭も払っていないのだけれどね。
「なんだ姉ちゃん、とうとうアイツに殴られでもしたのか」
弟が不快そうに顔を顰める。
弟は仕事のついでにたまに私のところへ寄ってくれ、何度か高志とも会っていた。
「あ、いや。
……まあ、そんなとこ」
実際、身体への暴力は振るわれていないが、三千万の借金を背負わせて捨てるなんてそれに等しいだろう。
「だから早く別れろって言っただろ」
はぁーっと弟が重いため息を吐き出す。
弟は会うたび毎回、早く別れたほうがいいと私に忠告していた。
そのたびに私は本当はいい人だからと笑っていたが、弟が言うのが正しかったんだな。
「まあ、別れたんならいい。
それで本人を前にして言うのはなんだが、盛重さんはまともな人なんだな?」
高志がああいう人だっただけに、父の心配はもっともだ。
「いい人だよ。
私を大事にしてくれる。
高志の件もすっごく怒ってくれて、解決してくれた。
感謝してもしきれないくらいだよ」
これは私の正直な気持ちだ。
海星さんのおかげで私は今、こうやって家族と会えている。
彼とあのとき出会えなかったら今頃、借金の形にあの男たちの好きにされていたかもしれないのだ。
それに子供を産む道具でしかないはずの私を大事にして優しくしてくれる。
この一週間、天国にでもいるかのように居心地がよくて、もしかして夢なんじゃないかと何度も疑ったくらいだ。
「その」
それまで黙っていた海星さんが、真っ直ぐ両親と対峙する。
「先にご両親の許しを得ず、花音さんと籍を入れてしまい申し訳ありませんでした」
真摯に彼が頭を下げる。
「ご挨拶を済ませてからしたほうがいいのはわかっていたのですが、その……私が、花音さんに深く惚れておりまして」
「……は?」
思わず口から変な音が出たが、慌てて押さえて誤魔化す。
この人は頬を薔薇色に染め、なにをもじもじ照れながら言い出したのだろう?
両親も弟も気まずそうに目を逸らしているし。
「花音さんからOKをいただき、喜びのあまり一足飛びに籍を入れてしまいました。
申し訳ありません」
「う、うん」
また海星さんが頭を下げ、父は少し赤い顔で頷いた。
「私は花音さんを愛しています。
この気持ちに嘘偽りはありません。
花音さんを、一生をかけて幸せにすると誓いますし、申し訳ありませんがつらい思いはさせるかと思いますが、不幸には絶対にしません。
もし、私のこの言葉が嘘だったときは、どうぞお好きになさってください」
畳に手をつき、海星さんが今度は深々と頭を下げる。
それはまるで心からの言葉かのように聞こえた。
父たちもそう思っているのか、彼の真剣な気持ちに気圧されたかのようになにも言わない。
しかし何度も言うが、私は彼にとって子供を産む道具でしかないのだ。
でも、もしかしてこれが海星さんの本心なんだろうか。
いや、そんなはずはない、そんなはずはないのだ。
なぜか必死に否定した。
「……わかった」
父の静かな声が部屋の中に響いた。
「花音を不幸にしたら、店のオーブンに入れて焼くからな」
「肝に銘じておきます」
神妙に海星さんが頷く。
いやいや、オーブンで海星さんを焼かないでもらいたい。
そもそもあのオーブンにこの大きな海星さんが入るのか?
とは思ったが、口には出さないでおいた。
話が終わり、和やかに食事が始まる。
「盛重さんってなにしてる人なの?
姉ちゃんの上司とは聞いたけど」
弟の口の利き方が馴れ馴れしくて睨んでいた。
「本社の開発部の本部長だよ。
それで、社長の息子」
お寿司を摘まみながらさらりと海星さんが自分の身分を明かす。
「え……」
弟の掴んだ箸から、寿司が転げ落ちていく。
「ちょっと待って。
じゃあ、盛重さんって次期社長……?」
弟も父も、穴があきそうなほど海星さんの顔を見ていた。
「さあ、どうかな。
俺には弟がいるからね。
なれるように努力はしているけど」
意味深に彼が、私側の目を瞑ってみせる。
ええ、それは言うわけにはいかないですね。
「ええーっ、そんな人の結婚相手が、うちみたいな一般庶民でいいのかよ」
それにはつい、うんうんと頷いていた。
「んー、俺は花音の乙女な部分が可愛いと思うし」
「まー、姉ちゃんは確かに乙女だ。
だからあんなアホ男に引っかかるんだよなー」
この年になっても乙女なんて、しかも弟にまで言われるのはいたたまれない。
さらにそれで、失敗したとなると。
「あと、間違っていることはきっぱりと間違っているという真っ直ぐなところとか」
「うんうん。
でもそれ、融通が利かないってことだけど、大丈夫?」
弟に私はそういう認識をされていたのだと初めて知った。
しかし、融通が利かないはよく言われる。
「そこがいいんだろ。
案外、間違っているとはっきり言うのは難しいんだ」
それは今までの彼の人生がそうだったんだろうと思うと切なくなった。
あの親と弟だ、きっと間違ったことをたくさん言っている。
しかし反論すれば今日みたいに物が、手が、飛んできたのだろう。
「それに俺は花音に救われたからな。
花音が貧乏人だろうとお姫様だろうと関係ないよ」
眼鏡の奥で目を細め、眩しいものかのように海星さんが私を見る。
おかげでみるみる頬が熱を持っていった。
「へーへー、お熱いこって」
気まずそうに弟が目を逸らす。
「ん?
もういいのか?
花音の可愛いところならいくらでもあげられるぞ?」
海星さんはまだ語り足りないらしいが、いい加減にしてください……。
父も母もどうしていいのかわからないのか、もぞもぞしているし。
海星さんの実家とは違い、楽しく過ごして実家をあとにする。
「今度は一緒に酒を飲もう」
「そうですね、楽しみです」
父は海星さんが気に入ったらしく、今日は車なのでお酒が飲めないのを残念がっていた。
「じゃあ、また来ます」
「ええ、いつでも来てね」
母はイケメンの、しかも性格もよさそうな息子ができたと大喜びだ。
「じゃあおやすみー」
両親に見送られて海星さんが車を出す。
弟はオンラインゲームの約束があると途中で抜けていた。
「素敵な家族で、羨ましい」
「そうですか?
騒がしい……」
そこまで言って、止まる。
今日、彼の家族の実態を目の当たりにした。
あんな家族ならば、うちのようなごく普通の家族でも羨ましく思えるに違いない。
「えっと」
こほんと小さく咳払いし、前言を撤回する。
「これから私たちで、素敵な家族になりましょう。
それにうちの家族はもう、海星さんの家族ですよ」
笑って、彼の横顔を見上げる。
なにかに気づいたように大きく開かれた目は、みるみるうちに潤んでいった。
片手で自分の眼鏡から下を海星さんが覆う。
「……うん、そうだな」
頷いた彼の目尻は光っていて、ぎゅっと私の胸が苦しく締まる。
これから私が、海星さんの素敵な家族になっていけばいい。
彼が私を幸せにしてくれるというのなら、私も彼を幸せにする。
……でも。
そっと、上機嫌で運転している彼の顔を盗み見る。
海星さんに家族を納得させるでまかせとはいえ、愛していると言われて怖かった。
人に、愛されるのが怖い。
愛されて本気になって愛するのが怖い。
本気になってもきっと、――また、捨てられる。
無意識に耳のピアスを触っていた。
ピアスをあけたところでまだ、私は高志から逃れられないのだ。
でも、きっぱり彼と別れて僅か一週間。
まだ絶望しなくていい。
しかし、どれだけ海星さんから愛情を注がれようと、この恐怖から逃れられる自信が私にはなかった。