「もー、最高だね、花音は」
廊下を歩きながら海星さんはおかしそうにくすくすと笑い続けている。
おかげで頬が熱くなった。
「笑い事じゃないですよ。
これで仕事を失ってしまいました……」
はぁーっと私の口からため息が落ちていく。
仕事を失ったのは痛いが、後悔はない。
あの人たちにはひと言、言ってやりたかった。
「別にいいんじゃないか?
俺の稼ぎだけで十分、花音も子供も養えるし」
「それはそうでしょうが……」
車に戻り、海星さんはやっと汚れた眼鏡を外し、ポケットから出した眼鏡拭きで拭いている。
「まあ、俺から手を回して止めておくよ」
「お願いします」
なんとかクビは免れそうだとほっとしたものの。
「俺としてはこのまま仕事を辞めて、妊活に励むのもありかな、とは思うけど」
再び眼鏡をかけながら、ちらっと彼の視線がこちらを向く。
「えーっと……」
はっきり拒否はしづらくて言葉を濁す。
確かに余裕を持って妊活に励めそうだし、産休育休で会社に迷惑をかけるとか考えないでよさそうだ。
けれど、仕事を辞める選択肢は私の中にはない。
今の仕事が好きだ。
結果が出るには年単位の時間がかかるが、それでも実現して建物が建ち、笑顔が溢れているのを見るとこの上なく嬉しくなる。
だから仕事を辞める提案をしてくる海星さんに少し……かなり反発を覚えていた。
「花音が子供を産んで復帰する頃には俺が社長になって実権を握ってるから、女性も復帰しやすくなってるけど」
私の反応を見るようにまた、ちらっと彼の視線がこちらを向く。
海星さんはもう、そこまで考えているんだ。
復帰まで含めての提案ならありだ。
「そうですね……。
少し、考えます」
「うん」
頷く彼を見ながらふと思う。
さっき、〝はず〟なんて一度も使わず、全部断定していた。
海星さんの中ではもう、社長になるのは確定なんだ。
これは私も責任重大だな……。
話が一区切り尽き、海星さんは車を出した。
「それにしても実家での海星さんの扱い、酷くないですか!?」
一方的に彼を否定し、お茶をかけ、さらにはカップまで投げつけるなんて、相手が他人でも考えられない。
それが親ならなおさらだ。
……ちょっと待って。
「いまさらですが、頭は大丈夫ですか!?」
カップがぶつかったとき、かなり痛そうな鈍い音がしていた。
怪我などしてないだろうか、遅ればせながら心配になってくる。
「ああ」
海星さんの手が後頭部をさする。
「ちょっとこぶになってるけど、大丈夫だろ」
彼は平然としているが、痛くなかったんだろうか。
――頭も、心も。
「海星さんの事情は知ってましたが、あそこまで酷いとは思いませんでした……」
実家での彼を思い出すと胸が苦しくなって、泣きたくなる。
畳に額を擦りつけ、平身低頭していた海星さんは今までこうやって心を踏みにじられ続けてきたんだ……。
海星さんは社長と愛人のあいだの子供だ。
社長の奥様は長く子供が授かれず、海星さんが二歳のときに跡取りとして引き取った。
しかしそれから一年も経たず、奥様の妊娠が判明する。
生まれた子こそ長男だといわんばかりに〝一〟の字のつく名前をつけた。
奥様はもちろん、社長も一士本部長を溺愛し、海星さんを冷遇して現在に至る。
「物心つく前からああだったからな。
あれが当たり前だとずっと思っていた」
海星さんの声はフラットで、私の胸にずん!と重くのしかかってきた。
「それにああやってひたすら頭を下げていれば、そのうち静かになってくれる」
彼の声はそれが普通といった感じで、悲しくなる。
幼い頃からずっと海星さんはこうやって、嵐が通り過ぎるのを待ってきたのだ。
「でも、今日は花音がいたから少しばかり反撃できたな」
思い出しているのか、少し愉快そうに彼が笑う。
「あの海星さんは格好よかったです」
きっぱり反論した彼は格好よかった。
でもすぐに今までの習性で折れてしまったが、仕方ない。
そうしなければ生きてこられなかったのだ。
「それにちゃんと、実家の名誉も守ってくれました」
ほんと、有名店のケーキだと褒めたものが、自分が貶した私の実家のものだとわかったときの社長の顔は痛快だった。
「あれが俺の精一杯だよ」
すまなそうな海星さんにううんと首を振る。
「これからは私がいるので!」
運転する彼の横顔を見つめた。
「海星さんは私を高志から自由にしてくれました。
恩返しじゃないですけど、今度は私が海星さんを癒やしてあげる番です。
だから、いっぱい甘えてくださいね」
「甘えていいのか?」
おかしそうに小さく、海星さんがくすくすと笑う。
ちょっと出過ぎた真似だったかなと、頬がほのかに熱くなった。
「あの、その」
「ありがとう、花音」
その声は今まで聞いた中で一番柔らかく、穏やかだった。
「花音は俺のために怒って、俺を癒やしてくれるんだな」
眼鏡の奥で彼の目が、泣き出しそうに歪む。
見えてきた待避場所に海星さんは車を停めた。
「あの日、花音に出会えた運を神様に感謝するよ」
ちゅっ、と軽く、彼の唇が重なる。
「ほんとは今すぐ花音を抱きたいけど……」
レンズの向こうから淫靡に光る瞳が私を見ていた。
下着の中でじわりと湿るのを感じた。
「でも、可愛い花音が乱れる姿を誰かに見られるのは嫌だからね。
やめておくよ」
熱い吐息で囁き、わざとらしく彼が耳朶を食む。
離れていく彼をまだ感触の残る耳を押さえて見ていた。
二枚のレンズを挟んで目をあわせたまま、海星さんがすいっと薄く唇に笑みをのせる。
ダメだ、こんな顔をされたら――彼を激しく欲してしまう。
「……海星、さん」
警告のようにカッチカッチとハザードの立てる音が聞こえる。
しかし、それにかまわずに震える手を彼のほうへと伸ばした。
それが彼の腕を掴むより前に車が通り過ぎていく。
「あっ、えっと」
慌てて手を引っ込め、火を噴きそうなほど熱い顔でシートに座り直す。
こんなところで求めるなんて……!
けれどそんな私にかまわず、海星さんは車を出した。
自分の行動が酷くはしたなくて、シートの上で小さくなる。
彼は先ほどから黙っているし、呆れているのかもしれない。
「……あの」
「花音」
沈黙に耐えかねて私が口を開いたのと、海星さんが口を開いたのは同時だった。
「その。
どうぞ」
なにか言わねば耐えられなかっただけで、なにも考えていなかったので彼に譲る。
「花音のご両親との約束の時間までまだだいぶ時間があるから、ホテルに寄ろうか」
さらりと言われたその意味を理解するまでにしばらく時間がかかった。
理解すると一度は落ち着いた熱がまた、襲ってきた。
「あの、その」
「というか俺が限界」
邪魔になりそうにない場所に車を停め、海星さんはカーナビを操作している。
ちらりと見えた検索ワードは【ホテル】になっていた。
「あんな目で花音に見つめられて、我慢しろっていうほうが無理だろ」
目的地が決まったのか再び彼が車を走らせる。
そのうち見えてきた、いかにもな建物に彼は車を入れた。
戸惑いつつ降りた私の腕を掴み、海星さんは足早に進んでいく。
すぐに見えた部屋のドアを開け、ベッドに半ば私を放り投げた。
「……海星、さん?」
起き上がる私の前で彼がもどかしそうにジャケットを脱ぎ捨てる。
その手がノットを数度揺らし、ネクタイを緩めた。
シャツのボタンをひとつ、さらに袖口のボタンも外しながら彼が私に迫ってくる。
「……花音が、悪いんだからな」
「……あ」
耳の形を確かめるかのように舐め上げられ、声が漏れた。
「あんな目で俺を煽って」
「ん、んん……」
キスしながら海星さんが私のワンピースのファスナーを下ろす。
……煽ってって、先にあんな熱っぽい目で見て煽ってきたのは海星さんじゃない。
反論したいけれど、十二分に躾の行き届いた身体は彼に触れられるだけで歓喜する。
「……なあ。
もう花音もその気だったのか?」
愉悦を含んだ声で笑いながら、海星はそっとそこに触れた。
「んんっ、んっ……意地悪」
きっと、わかっているのに聞いている。
海星はいつもそうだ、私を苛めて愉しんでいる。
「じっくり可愛がってやりたいが、そこまで時間がないからな……。
赦せ」
そのまま――。
「はぁっ、あっ」
達した海星が私の身体から出ていき、隣にごろりと寝転ぶ。
「俺は気持ちよかったけど、花音は……?」
まだ荒い息で彼が尋ねてくる。
「気持ちよかったです……」
目を閉じて深い息を吐き出した。
少し眠いように身体がだるい。
でもそれが、いつも幸せだった。
「よかった」
私にキスをし、海星がティッシュで自身の出したものが垂れ落ちるそこを拭いてくれる。
「俺、コンタクトにしようかな」
また私の隣に寝転び、海星さんは肘枕で私を見下ろした。
「なんで……?」
「コンタクトだと花音とエッチするとき、顔がはっきり見えるだろ?
さっき、花音の可愛い顔がよく見えて滅茶苦茶興奮したし」
「あー……」
その理由はわかる、かも。
今日は私も海星さんの顔がはっきり見えて、いつもよりも興奮した。
「でも私、眼鏡の海星さんが好きなんですが……」
私に眼鏡フェチの性癖はないと思う。
でも、ノー眼鏡の海星さんに迫られるより、眼鏡の海星さんのほうがよりどきどきするっていうか。
「ふぅん。
花音は眼鏡の俺が好きなんだ?」
片頬を歪め、にやりと彼が笑う。
「じゃあこれからは、眼鏡をかけたままシようかな」
「ん、……あ」
耳もとで囁かれ、せっかく収まった熱がまた、身体に宿り始める。
「だめぇ……また、スイッチ入っちゃぅ……」
甘い吐息を漏らしながら彼の顔を手で押さえて遠ざけた。
「それは大変だ。
約束の時間に遅れるわけにはいかないからな」
私から離れ、海星さんがわざとらしく肩を竦める。
それを恨みがましく睨みつけたが、彼にはまったく効いていなかった。
シャワーを浴びて身支度を調える。
海星さんもそのあいだに汚れた眼鏡を拭き、乱れた服装を直していた。