車は高速を下り、山間の道を進む。
高速に乗ってからそろそろ二時間が経とうとしていた。
「あのー、海星さん?」
「ん?
もしかしてトイレか?
しまったな、この辺りはコンビニもないから……」
彼は心配してくれるがそうじゃない。
それに高速を下りる前、最後のパーキングに寄ってくれたのでその心配はなかった。
「あ、いえ。
それは大丈夫なんですが。
まだかかるんですか」
「ああ。
もう少しで着く」
……もう少しってどれくらいなんだろう?
周囲を見て不安になった。
まさしく山道!という道を車は走っている。
確かにこれではコンビニはないだろう。
社長は会社近くのマンションに住んでいて、たまにしか家に帰らないというのは納得だ。
ようやく山を越えた先には町が広がっていた。
けれどそこまで下りず、中腹にある大きな屋敷に海星さんは車を入れた。
「凄いですね」
そこはまさしく、名家というのがふさわしい大きな屋敷だった。
「昔はここいら一帯の大地主だったんだ」
こそっと耳打ちされ、納得した。
「ただいまかえりました」
玄関で母ほどの年の女性が出迎えてくれた。
そのまま長い廊下を歩き、庭に面した座敷に通される。
海星さんに指示され、下座に彼と並んで座った。
しばらく待ったがお茶を出されて以後、誰も来ない。
どこかにししおどしでもあるのか、カコーンと長閑な音がした。
「えっとー、海星、さん?」
「まだ父が帰ってないか、母が会いたくないとごねているのかのどちらかだと思う」
私の戸惑いに気づいたのか、彼が苦笑いで説明してくれる。
さらに少し待った頃、どすどすと乱雑な足音と、甲高い女性の声が響いてきた。
「いっそ、帰ってこなければよかったのに」
「そういうわけにもいかんだろ」
言い争いながら年配の男女が入ってくる。
もちろん、男性は盛重社長だ。
「待たせたな」
まったく悪いなんて様子はなく、社長が目の前に座る。
女性――母親は嫌々といった感じで腰を下ろした。
すぐに新しいお茶とケーキが運ばれてくる。
ただし、私たちのお茶は淹れ直してもらえなかった。
「それで。
話とは?」
ちらりと社長の視線が、私へと向かう。
それはまるで値踏みされているようで、嫌な感じがした。
「結婚いたしましたので、ご報告に上がりました」
実の親相手に海星さんは座布団を避け、頭を下げた。
私も慌てて同じようにする。
「結婚、だぁ?」
不快そうにその語尾とともに社長に右眉が跳ね上がった。
「そこの女と籍を入れたというのか」
「はい。
先日、こちらの女性、坂下花音さんと結婚いたしました」
畳に額を着けたまま、海星さんは頭を上げない。
「親はなにをしている?
仕事は」
横柄な態度で社長は海星さんに問いかけた。
「花音さんのご両親は洋菓子店を営んでおります。
花音さん自身は我が社の開発部に所属する社員です」
「町のケーキ屋風情の娘でお前の部下か」
見下すように言われカッと腹の底に火がついたが、海星さんを不利にするわけにはいかないので、堪えた。
「花音さんは支店勤務ですので、直属の部下ではないです」
冷静に海星さんが訂正する。
それに対する社長の答えはない。
「……まあいい。
お前が誰と結婚しようと問題ない。
後を継ぐのは一士だからな」
はっ、とバカにするように社長が吐き捨てる。
「そうですよ、後を継ぐのは一士です」
さらに母親が追従する。
言い返したい。
後を継ぐのは海星さんだって。
海星さんなら会社を潰し、たくさんの人を路頭に迷わせたりしない。
そっと隣に座る彼の顔を盗み見る。
それにしてもどうして、海星さんは反論しないんだろう。
立場から親の言いなり……は、ありえなさそうなんだけれど。
「わかりませんよ」
ゆっくりと海星さんが頭を上げる。
「私は一士と同じ条件になりました。
あとは一士より先に子供を授かればいいだけの話です」
レンズ越しに彼は、社長と目をあわせた。
「それとも他にもなにか、私に不利な条件でもつけてきますか」
私に見える右頬だけを歪め、彼が不敵に笑う。
みるみるうちに社長の顔も母親の顔も真っ赤に染まっていった。
「愛人の子風情が!」
いきなり水滴が飛んできて、なにが起こったのかわからなかった。
隣を見ると海星さんの前髪からぽたぽたと雫が垂れている。
前に視線を戻した先では、母親が荒い息で彼にお茶をかけた姿勢のまま立っていた。
「気に障ったのなら申し訳ありません」
眼鏡も拭かず、また海星さんが畳に額をつける。
「親にも捨てられたお前を、育ててやった恩を忘れたか!」
さらにカップが海星さんに向かって飛んでくる。
それはごん、と重い音を立てて彼の後ろ頭に直撃したが、彼は微動だにしなかった。
「お母様には感謝しています」
「お前に母など呼ばれたくない!」
さらに彼に向かって罵声が飛ぶ。
どうしてここまでされなければいけないのだろう。
海星さんが――愛人の子、というだけで。
「申し訳ございませんでした」
「ふん!」
彼がこれ以上ないほど畳に額を擦りつけ、ようやく溜飲が下がったのか母親は腰を下ろした。
「式は花音さんのご親族のみで行いたいと思いますが、よろしいでしょうか」
「勝手にしろ。
お前の結婚式など誰も関心はない」
「ありがとうございます」
なんであんなに言われて海星さんはお礼を言うの?
口を挟みたい、けれどそれで彼の立場を悪くするのは申し訳なくてできない。
「話はそれだけか」
「はい。
本日は私などのためにお時間をいただき、ありがとうございました」
再び海星さんが頭を下げるので、私もさげた。
もう私たちなどいないかのごとく、社長は大きな口を開けてケーキに食らいついている。
促されて立ち上がり、座敷を出た。
「うまいな、これ。
どこの有名店のものだ?」
社長の声が聞こえたのと海星さんが足を止めたのは同時だった。
「お父さん」
海星さんが社長を振り返る。
そこでは私たちの前にあったケーキにまで社長は手を伸ばし、母親も自分の分に手をつけていた。
「そのケーキはお父さんが町のケーキ屋風情といった、花音さんの実家のものです。
お口にあったのなら、よかったです」
これ以上ないほどいい笑顔でにっこりと海星さんが笑う。
「かーいーせーいー」
社長はぶるぶると震えだし、目の前のケーキを叩き潰した。
「誰がお前などに後を譲るか!」
社長の咆哮がびりびりと空気を震わせる。
しかし海星さんは涼しい顔をしていた。
行こうと促されて五歩ほど歩いたが、どうしても彼らに言いたいことがあって戻る。
「あの!」
「なんだ!」
じろっと社長に睨まれたが、かまわずに続ける。
「私、絶対に海星さんの子供を身籠もって海星さんを社長にしますが、こんな最低な家の嫁になる気はないので。
では、失礼します」
ぺこりと頭を下げて振り返った途端。
「キサマはクビだー!」
凄まじい社長の雄叫びが背中から追ってきた。