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第10話

今日も髪を撫でる、優しい手で目が覚めた。


「起こしたか?」


ちゅっと軽く口付けを落としてきた海星本部長は、またスーツ姿だった。


「……今日もお仕事、ですか……?」


起き上がろうとしたけれど、彼がそれを止める。


「少し用事を片付けてくる。

花音はまだ、寝てていいよ」


大きな手が、私の瞼を閉じさせる。


「昨日も無理、させたしな」


くすりと小さく笑われ、一瞬で頬が熱くなった。


「……そう、ですね……」


掛け布団を掴み、引き上げて顔を隠す。

昨晩も散々、海星本部長から求められた。

キモチイイを覚えた身体は簡単に何度も達し、終わった頃には半ば、意識を失っていた。


「帰ってきたら一緒にお昼を食べに行こう。

服や、ここで生活するのに足りないものも買わないといけないしな」


「はい……」


髪を撫でる手が気持ちいい。


「じゃあ、いってくる」


そのまま意識はとろとろと溶けていき、優しい口付けを最後に完全に眠りに落ちた。




「よく寝た……」


目が覚めて、大きく伸びをする。

海星本部長はまだ帰ってきていないようなので、起きて簡単に身支度をしてしまった。

ちなみに服は大手量販店『ニャンユー』で買ったグレーのロングナロースカートに白カットソーと、仕事着と大差はない。

髪はいつもどおりひっつめ結びにし、簡単に化粧をして黒縁ウェリントン眼鏡をかければ完成だ。


「いい天気……」


リビングにある大きな窓からは燦々と日の光が降り注いでいる。

屋上は庭園になっていると言っていたし、ちょっとお散歩に行ってもいいかも。


とりあえずなにか飲もうとキッチンへ行ってみる。

よく掃除されていて綺麗だが、綺麗すぎて反対に使っていないんじゃないかという疑惑が持ち上がってきた。


コーヒーマシーンとそれにセットするカプセルは発見した。

コーヒーを淹れているあいだに、失礼ながら冷蔵庫チェックをさせてもらう。


「空だ」


立派な冷蔵庫が鎮座していたが、僅かばかりの氷が入っているだけだった。

昨日の夜も外食だったし、もしかして家では食べない人なんだろうか。


「うーん」


コーヒーを飲みながら、することもないのでテレビをつけて眺める。

海星本部長は有料動画配信をいろいろ契約しているみたいで、そこはちょっと嬉しい。


「帰ったぞー」


コーヒーを飲み終わり、カップを洗っていたら海星本部長が帰ってきた。


「おかえりなさい」


「ただいま」


出迎えるとちゅっと軽く唇が重なった。


「俺も着替えるからちょっと待っててくれ」


ネクタイを緩めながら彼が寝室へと消えていく。

少ししてハイネックカットソーにチノパン、それにジャケットとラフな格好で戻ってきた。


「じゃあ、行くか」


「はい」


一緒に部屋を出て地下駐車場へ行く。

昨日乗ったセダンへ向かいかけたら、止められた。


「今日はこっち」


海星本部長がロックを解除したのは、その隣に停めてあるミドルタイプのSUVだった。


「車、二台持ってるんですね」


車、しかも高級外車を二台も所有とはさすが御曹司とは思ったものの。


「いや、三台」


さらに隣の車を彼が指す。

そこには小型の車が停めてあった。


「これはプライベート用で、あっちは仕事用」


海星本部長が指したのは昨日乗った車だった。


「んでこっちはひとりで気ままに出掛ける用」


今度は反対側の車を指す。


「はぁ……」


用途によって車を使い分けているのはわかったし、別にかまわない。

ただ、三台は凄いな、って思っただけで。


シートベルトを締め、海星本部長は車を出した。

レジデンスを出て道の両側に並ぶのは、ここのような低層レジデンスか、高級住宅だ。

街の中心には駅があり、そこに建つビルの一階にはスーパーをはじめ店舗がいくつか入っているのが見えた。


「なにか食べたいものはあるか」


「いえ、特には……」


「わかった」


車の中はお洒落なジャズが流れていた。

いかにも海星本部長っぽい。

車は街を抜け、さらに走って行く。

高級繁華街に入り、百貨店の駐車場に彼は車を預けた。

そのまま百貨店のレストランフロアへと向かう。


「なんにするかなー」


私と手を繋ぎ、彼はぷらぷらと店を見て回った。


「花音には精をつけてもらわないといけないし、鰻にするか!」


一軒の店の前で立ち止まり、海星本部長がにぱっと私の顔をのぞき込む。

精をつけないとって、また今晩もあれなんですかね……?

などと一抹の不安がよぎっていったが、考えないようにした。


個室に案内され、広げたメニューは昨晩に引き続き速攻で閉じそうになったが、かろうじて耐えた。

だって海星本部長が連れてくるお店って、一食分の金額で何日やっていけるか考えてしまう金額なんだもの!


「どうかしたのか?」


私が挙動不審だったのか、海星本部長が聞いてくる。

いや、なんかちょっと愉しそうに顔が崩れているから、どうしてかなんてもうわかっているに違いない。


「……なんでもないです」


平静を装い、メニューに視線を落とす。


「ほんとに花音は可愛いな」


彼の声は完全に愉しそうだが、きっとあの可愛いは普段周りにいない、珍しいものに向けるアレだ。


「それで、どれにする?」


どれと言われても、なにを選んだらいいのかわからない。

いや、食べたいものはあるのだ。

しかし金額的にどの当たりを頼んでいいのかわからない。


「俺はうな重の特上にしようと思うが」


メニューのその欄を見て金額を確認する。


「じゃあ、私はひつまぶし、で」


安心してメニューを閉じる。

これで問題はないはず。


店員を呼んで海星本部長が注文をはじめる。


「うな重の特上とひつまぶしの極上を。

吸い物はどちらも肝吸いにしてください。

あ、うな重は大盛りでお願いします」


注文を聞いて固まった。

ひつまぶしはひつまぶしだが、ランクが遙かに上がっている。


「あ、あの」


「以上で」


目で海星本部長に訂正を求めるが、彼は無視してしまった。


「かしこまりました」


結局、取り消しできないまま店員が下がる。


「花音、また遠慮しただろ」


レンズの向こうから軽く海星本部長が私を睨む。

怒っているのはわかるが、理由がわからない。


「ただ、奢ってもらうのに高いものは申し訳ない、っていうのなら許す。

でも花音はそうじゃないだろ」


「うっ」


図星を突かれ一瞬、息が詰まる。


「別に俺は花音が俺より高いものを頼んだからといって怒鳴ったりしない」


「……はい」


高志との外食では、私のほうが一円でも高いものを頼むといつも怒鳴られた。

私の支払いでも、だ。

海星本部長はそんなことをしないと頭ではわかっているのだが、身体に染みついた習性はそう簡単にはなくならない。


「それに俺は花音を目一杯甘やかせると言っただろ?

だから特上でも極上でも、花音が好きなモノを頼めばいいんだ」


腕が伸びてきてその長い指が、からかうように軽く額を弾く。


「……痛いです」


僅かに痛む額を、押さえた。


「いっぱい傷ついてる花音の心を、少しずつ治していこう。

必要ならカウンセリングも手配する」


真面目な顔で海星本部長が頷く。


「ありがとう、ございます」


彼のおかげで私は自分が傷ついているのだとようやく気づけたばかりだ。

どうすれば治るのかはわからないがそれでも、彼と一緒にいれば少しずつ癒やされていくのではないかという気がしていた。


「花音の借金三千万、話をつけてきた」


美味しい鰻を堪能していたら唐突に言われ、箸が止まる。


「それは……すみませんでした」


交換条件だったとはいえ、やはり三千万なんて大金を払わせるのは気が引ける。


「いや?

結局、一銭も払わずに済んだしな」


なんでもない顔で海星本部長は大口を開けて鰻ごとご飯を頬張ったが、それって?


「あのー」


「ん?」


どうかしたのかとでもいわんばかりに彼は首を少し傾げたが、説明が欲しいです!


「ああ。

借用書は確かに、花音が借りたことになっていた。

でもな」


箸を置き、やっと彼が事情を話してくれる。


「違法貸金業者……いわゆる闇金だったからな。

金を借りても返す義務がないんだ。

憲司を連れていってきっちり話をつけてきたし、ついでに知り合いの警察官にも通報しといたし」


再び箸を取り、海星本部長はご飯に鰻をのせて口に運んだ。

それにしても弁護士の友人はまだわかるが、懇意にしている探偵に知り合いの警察官って、この人の交友関係ってどうなっているんだろう?


「そんなわけで俺は一銭も払わずに済んだ、というわけだ」


「そうですか……」


海星本部長からすれば三千万なんてたいした金額じゃないのかもしれないが、それでも私のために大金を払わせるのは心苦しかった。

それを払わずに済んだのなら、よかった。

……ん?


「……ちょっと待ってください」


「ん?」


声をかけられ、箸を止めて海星本部長は顔を上げた。


「それって私は海星本部長の子供を身籠もる必要はないということでは……?」


それと引き換えに三千万を払ってもらう契約をしたのだ。

しかし払わずに済んだのなら、この契約は反故になるはず。


「なんだ、花音は俺の子を産むのが嫌か」


みるみる彼が不機嫌になっていく。

それを見て自分の失言に気づき、怒鳴られるのかと怯えた。


「えっ、あっ、そんなことは……」


言葉を濁し、きょときょとと落ち着きなく当たりに視線を彷徨わせる。

そんな私を見て海星本部長はあきらかにしまったといった顔をした。


「……わるい」


箸を置いた彼が、申し訳なさそうに背中を丸める。


「別に怒っているわけじゃない。

怯えさせて悪かった」


なぜか真摯に彼が詫びてきて意味がわからない。


「もう少し、気をつけるようにする」


そこまで言われてようやく、海星本部長が私を気遣ってくれているのに気づいた。


「あの、その、……大丈夫、なので」


「ダメだよな。

わかってるのに、つい」


お茶をひとくち飲み、彼が呆れるようにため息をつく。


「本当に悪かった!」


勢いよく彼が頭を下げ、面食らった。


「そうだ、お詫びになんか買ってやろう。

なにがいい?

靴か、バッグか。

ネックレスもいいよな」


なんだか海星本部長はひとりで真剣に悩んでいるけれど。


「お詫びとかいいので。

ほんとに」


これくらいでお詫びになにか買ってくれるとか行き過ぎだ。

それに普通の人ならなんでもない話だったのだ。

ただ、私がまだ高志の呪縛から逃れられず、過剰に反応してしまうだけで。


「そうか?

でも、やっぱりなにか買ってやりたいから、考えておいてくれ」


「はぁ……」


どうしてそこまで彼がしたいのかわからないが、これ以上断るのもなんか悪いのでこの話はここまでにしておこう。


「それでさっきの話だがな」


逸れた話を海星本部長が元に戻す。


「はい」


彼の子を産みたくないのかといわれれば、気持ちは産みたいほうへと傾いていた。

とはいえ恋愛感情からではなく、感謝の気持ちからだが。


「俺は花音の借金を肩代わりする代わりに、花音に俺の子を産んでもらう契約をしたわけだが」


「はい」


だからこそ、借金を返済せずに済んだのなら、この契約は成立しないのでは?


「昨日、花音の借金を俺が引き受ける手続きを憲司にしてもらったよな」


「そう……ですね」


海星本部長はいったい、なにが言いたいのだろう。

とりあえず、最後まで話を聞くしかない。


「花音の借金が俺のものになった昨日の時点で、条件は満たしている」


「そ、それは……」


彼はドヤ顔だが、それは詭弁じゃないですかね……?

でも確かに、海星本部長に借金の肩代わりはしてもらっている。

じゃあ、やっぱり契約成立なのか?


「憲司にも俺が俺の借金をどうしようと、俺たちが結んだ契約に影響はないのは確認済みだ。

なんなら今からアイツを呼んで、説明してもらうか?」


にやりと片頬を歪めて意地悪く笑い、わざとらしく彼が携帯を手に取る。


「……いえ。

けっこうです」


「そうか」


さも残念そうに彼は携帯をしまったのはいいが、さっきから完全に弄ばれている。

昨日も思ったけれど、頭が切れてさらにお金を持っている人って、敵に回すと恐ろしい……。

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