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第9話

砺波さんにお礼を言い、弁護士事務所をあとにする。

駐車場に戻ってきて、車に乗せられた。


「とりあえず花音の家だな」


私に住んでいるマンションの場所を聞き、海星本部長はナビをセットしている。

これでようやく家に帰れると思ったものの。


「引っ越しは追い追いしてもらうが、当面の生活にいるものを取ってこい」


「ハイ……?」


意味がわからなくて首が斜めに倒れた。


「週明けには憲司が婚姻届を提出するから、そうなれば俺たちは夫婦だ。

子供の件もあるし、一緒に暮らしたほうがいいだろ?」


「そう……ですね」


そうか、まだ実感はないが私は海星本部長と結婚するんだ。

この数日、とにかく怒濤の展開で現実味がまるでない。


「近いうちに花音のご両親に挨拶へ行かなきゃだし、でもさすがに明日はご迷惑だろうから来週でも都合を聞いておいてくれ」


「……はい」


私を置いて話はどんどん進んでいく。


「式の日取りも決めないとな。

妊婦で花嫁はつらいだろうから早いほうがいいんだろうが、どうだろう?

それとも子供が生まれて落ち着いてから改めて挙げたほうがいいんだろうか」


もうそこまで海星本部長は考えていて驚いた。

けれどひとつ、段取りを飛ばしている。


「あの」


「なんだ?」


怪訝そうに眼鏡の奥から、ちらりと彼の視線がこちらへ向かう。


「海星本部長のご両親へのご挨拶は……?」


私の両親だけして、彼の両親にはしないなんてわけにはいかないだろう。

それに両家の顔合わせの問題だってある。


「俺の両親は……」


言い淀んで海星本部長は黙ってしまった。

結婚していない彼にも跡取りを儲けることを社長を継がせる条件にしてくるほど、彼が両親からよく思われていないのはすでに承知している。

その事情も社内どころか社外でも有名だった。


「きっと花音が嫌な思いをするから会わせたくないが、そういうわけにはいかないか」


自嘲するように彼が笑う。

それはつらそうでもあり淋しそうでもあって、胸がつきんと痛んだ。


「都合を聞いておくよ。

顔合わせはできるだけ避けられるように努力する」


そこまで嫌なのかとは思ったが、彼の事情からするとそうなのかもしれない。


そうこうしているうちに私が住んでいるマンションに着いた。

海星本部長には車で待っていてもらい、手早く当座の荷物をまとめてしまう。


「お待たせしました」


「いや、いい」


私がシートベルトを締めたのを確認し、海星本部長は車を出した。

そのまま彼が住んでいるレジデンスに戻ってくる。

昨日はいっぱいいっぱいで気にしてなかったが、駐車場にある通用口のドアは鍵など開けずに開いた。

まさか鍵がない?

そんなはずはないよね、こんなところで。


エレベーターに乗り、海星本部長は最上階である五階のボタンを押した。


「マンションの出入りは顔認証なんだ。

あとで花音も登録しないとな」


私の疑問に気づいたのか彼が説明してくれる。

エレベーターを降り、部屋の鍵は彼が腕時計をかざすだけで開いた。


「部屋は携帯で開く。

こっちも登録しないとな」


「ほえー」


感心して変な声が出る。

けれどくすりと小さく笑われ、みるみる顔が熱くなっていった。


案内されたウォークインクローゼットに持ってきた服をしまっていく。

そんな私を戸口で右肩を壁に預け、海星本部長は見ている。


「思ったんだけどさ」


「はい?」


「……服が、地味だよな」


それは馬鹿にされているようで、カッと頬が熱くなった。


「地味で悪いですね!」


私だってお洒落な服を着てみたい気持ちはある。

しかしどんな服を選んだらいいのかわからないのだ。

それに私なんかには似合わないとも思っていた。


「怒ったんなら謝る」


勢いよく振り返ったら、彼は姿勢を解いて私の前に立った。


「でも昨日の花音はとても綺麗だったし、せめてそのひっつめ結びやめて眼鏡を外したら……」


海星本部長の手が私の眼鏡にかかり、外させる。

けれど中途半端なところで止まった。


「……いや、このままでいい。

特に眼鏡は俺の前以外では絶対に外さないこと」


「はぁ……?」


なぜかまた眼鏡をかけさせ、彼は誤魔化すように小さくこほんと咳払いをした。

その眼鏡の弦のかかる耳は赤くなっているが、なにか照れる要因でもあったのだろうか。


「とりあえず服は俺が買ってやる。

明日にでも買いに行こう」


「えっ、でも借金の肩代わりをしてもらったうえに服まで買ってもらうわけには……!」


部屋を出ていこうとしていた海星本部長は足を止め、くるりと振り返ったかと思ったらちゅっと唇を重ねてきた。


「……は?」


おかげで間抜けにもひと言発して固まった。


「ほんと、花音は可愛いなー。

花音を俺の妻に選んで正解だったな」


「えっ、とー」


なんだかご機嫌に海星本部長は今度こそ部屋を出ていくので、私もそれに着いていった。

それにしても可愛いって誰のことだ?

高志にだって可愛いなんて言われたことがない。


ソファーに座っているように言われたので、おとなしく座る。

アイボリーの革製ソファーはフローリングの上に直接置かれていた。

その前にはダークブラウンの木製ローテーブルがあり、正面の壁には大型のテレビが掛かっている。

リビングにある家具はそれだけだった。


「どうかしたのか」


よっぽど私が変な顔をしていたのか、怪訝そうに海星本部長が隣に座る。

テーブルに置かれたふたつのカップからはコーヒーのいい匂いがしていた。


「あー、えっと」


なんと答えていいのか困る。

ミニマル主義なんですか

なんて聞いてもいいんだろうか。


「いえ、なんでもないです」


結局、なにも聞けなくて曖昧に笑って済ませる。

どうしてか、インテリアについては聞いてはいけない気がした。


「なら、いいが」


彼がカップを口に運ぶので、私も口をつけた。

ふくよかな香りが私を包み、リラックスさせる。

コーヒーを飲みながら鍵の設定をした。

これからここに住むのに、鍵がないと不便だもんね。


「その」


鍵の設定が終わり、携帯を置いて居住まいを正した。


「私の借金を肩代わりしていただき、ありがとうございました」


誠心誠意、心を込めて頭を下げる。

今日、砺波さんが準備していた書類の中には、私の借金を海星本部長が請け負う内容のものもあった。

弁護士さんの作ったものだから、サインすれば法的拘束力が発生する。

けれど海星本部長は迷わずにそれに、サインした。


「よせよ。

俺はその代わり、俺の子を産めとか滅茶苦茶な条件を出してるんだからさ」


自嘲するように小さく肩を竦め、彼はコーヒーをひとくち飲んだ。


「それだけじゃありません。

高志のことも」


借金を私に押しつけていなくなり、それで終わりだと思っていた。

しかし海星本部長は彼を探しだし、形だけではあったけれど謝罪させてくれた。

それに警察に連れていかれる彼を見て、溜飲が下がらなかったかといえば嘘になる。


「それこそあれは、俺がアイツを酷い目に遭わせたかったからやっただけだ」


「海星本部長が、ですか?」


しかし、彼が高志にそこまでの恨みを抱く理由がわからない。


「昨日、花音は『気持ちいいのが嬉しい』と泣いていただろ?

抱かれるのは苦痛だとも言っていたし、あれを見て今までどれだけ花音はつらい思いをしたんだろうと悲しくなった」


隣りあう彼の手が私の手に重なる。


「借金だってそうだ。

三千万なんて大金、背負わせて捨てるなんて花音に惨いことをするヤツは、絶対に許せなかったんだ」


ぎゅっと私の手を握る海星本部長の手に力が入る。

痛かったがそれだけ彼が怒っているのだとわかって、嬉しかった。


「だからあれは、俺が俺のためにやったことだ。

花音が礼を言う必要はない」


こちらを向いた彼が眼鏡越しに私と目をあわせる。

その目はとても優しげに見えた。


「でも……」


「いいんだ。

それに」


腕が伸びてきて、私を抱き締める。


「花音は今まで、いっぱいつらい思いをしたんだ。

これからは俺が目一杯、花音を愛して甘やかせる。

これまでの分、いや、これまでの分以上に幸せにする」


誓うようにぐっと海星本部長の腕に力が入った。

そうか、今まで私はずっと、つらかったんだ。

でも、そんな思考すら許されなかった。

可哀想な自分に私自身、気づけなかった。

けれど海星本部長は私が知らなかった可哀想な私を見つけて、こうやって抱き締めてくれるんだ。

認めると同時に涙が頬を転がり落ちていく。


「うっ、ううっ。

うわーっ……」


泣きじゃくる私の髪を、撫でる海星本部長の手は優しい。

おかげでますます涙が出てきた。


「落ち着いたか?」


「……はい」


海星本部長が私の汚れた眼鏡を外し、唇でまだ残る涙を拭う。


「なんか、すみません」


こんなに泣いたのはいつぶりだろう

おかげで気持ちはこれ以上ないほどすっきりしていた。


「いや、いい。

これからは俺と幸せになろうな」


ちゅっと軽く唇が重なる。

海星本部長は優しい。

私なんて社長になるための道具に過ぎないはずなのに、こんなに気遣って幸せにしてくれるという。

せめて私が早く身籠もって、彼を社長にしよう。

そう、誓った。

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