髪を撫でる、優しい手で目が覚めた。
「起こしたか?」
目を開けると、柔らかなバリトンが降ってくる。
寝起きでしかも眼鏡なし、ぼんやりとしか見えない相手はスーツを着ているように感じた。
「……お仕事、ですか?」
まだ眠い目を擦り、起き上がる。
枕元を探るが眼鏡が見つからない。
昨日、どこに置いたっけ?
目覚めきらない頭で考えるが、まだ靄がかかっていてはっきりしない。
私がなにをしたいのか気づいたのか、彼が手を取って眼鏡を握らせてくれた。
「ああ。
少し片付けなければならない仕事があってな」
眼鏡をかけ、ようやく彼の姿がクリアに見える。
彼――海星本部長は困ったように少し笑った。
「大変、ですね」
営業部はシフト制だが私のいる開発部は基本、休日は休みだ。
今日は土曜日だから私はもちろん、開発本部長の海星本部長も休みのはずだ。
「なんてことないさ。
昼過ぎには帰ってくる。
花音はまだ、寝てていいからな」
ちゅっと彼が、私の額に口付けを落としてくる。
「……じゃあ。
お言葉に甘えて、そうさせてもらいます」
一昨日は借金を返せるだろうかとそればかりが心配で、ほとんど眠れなかった。
昨日も眠りについたのは遅く、正直にいえばまだかなり眠い。
「うん。
じゃあ俺は、いってくる」
今度は唇に、海星本部長が口付けを落としてくる。
「……いってらっしゃい」
それが恥ずかしくて、もそもそと布団に潜り込んだ。
彼が出ていき、眼鏡を外してベッドサイドにある棚に置き、布団の中で丸くなる。
すぐに再び眠気が襲ってきて、すぐに眠ってしまった。
「よく、寝た……」
それからどれくらい経ったのだろう。
すっきり目が覚めて、起き上がって大きく伸びをする。
こんなにゆっくり眠れたのはひさしぶりだ。
「何時だろう……」
部屋の中に時計はない。
寝室から出て、リビングのソファーに置いておいたバッグから携帯を取り出す。
「うっ」
画面を見て顔を顰める。
そこには私がかけたときにはあんなに繋がらなかった高志から、何件もメッセージと着信が入っていた。
「いまさらなんの用……?」
トークルームを開いてみたら、お金が必要だから用立ててほしいと、愛しているなどの言葉とともに送られてきていた。
「そんなんで、まだ私が騙せると思ってるの……?」
高志の愛は口先だけの嘘だってもうわかっている。
こんなの、既読スルーしてブロックしてしまえばいい。
しかし、ブロックボタンを押そうとして指が止まる。
メッセージはかなり、切羽詰まったものだった。
もしかしたらあの取り立て屋が高志を探し出し、困った状況になっているのでは。
いや、あんな奴らからお金を借りた彼の自業自得なのだ、私だって迷惑しているんだから気にしなくていい。
しかし、無視して彼が東京湾に浮くような事態になってしまったら、それはそれで自分を責めそうだ。
「あー、もうっ!」
ひとつ悪態をついて電話をかける。
ワンコールも鳴らずに相手が出た。
かなりのっぴきならない状況のようだ。
「高志……」
『花音!?
助けてくれ!』
相手――高志の声はかなり緊迫していた。
「ちょっと、落ち着いて。
なにがあったの?」
痛む額を押さえ、その場をうろうろと歩き回る。
『なんか弁護士?の使いだっていう探偵?が来て。
オレを詐欺で訴えるとかいうんだ。
訴えられたくなかったら金払えとか、絶対怪しいよな』
高志は怒っているが、もしかして私の他にもカモにしていた女性がいたのだろうか。
弁護士というのがその方の雇った人間なら、理解できる。
「怪しいと思うのなら、無視しとけばいいんじゃないの?
それか警察に相談するとか」
詐欺なら無視するに限る。
でもこれは高確率で詐欺ではないだろう。
『それが相手との待ち合わせ場所は自分が連れていくから、時間になったら迎えに来るっていうし。
逃げても絶対に見つけ出すって言われてさ……。
アイツ、絶対カタギじゃないし、無理だ……』
次第に高志の声が恐怖に染まっていく。
使いの人間はよっぽど強面の男だったんだろうか。
『金さえ払えば示談で済ませてくれるっていうんだ。
だから、お願い。
花音、なんとかして』
この期におよんで私にお金を工面してくれという彼の神経がわからない。
もしかして私のところに借金取りが来たとか知らないんだろうか。
いや、知っていたから電話が繋がらなかったんだろうし。
『頼れるのは花音しかいないんだ。
それにあれ絶対、金払わなかったら殺される。
な、頼むよ』
詐欺で訴えられる話が殺される話に変わっているが、もしかして全部高志の嘘?
訴えられるのは自業自得だけれど、死なれては目覚めが悪い。
「あー、もー、わかったよ!」
どうにか考えをまとめようと髪をがしがしと掻き回し、勢いよく頭を上げて決心をつける。
「行くよ、行けばいいんでしょ?
どこにいるの?」
『ほんとか、花音!?
助かる!』
どこで落ちあうか確認して電話を切る。
自分が都合のいい女の自覚はある。
でも、それが私なのだから仕方ない。
洗面所で顔を洗い、手早く簡単に身支度を済ませる。
携帯とバッグを掴み、玄関のドアノブを掴もうとしたところで外側から開いた。
「うわっ!?」
おかげで相手とぶつかりそうになり、急ブレーキをかける。
「出迎えに出てくれた……わけじゃないよな」
私を見てドアを開けた人物――海星本部長は小さく笑った。
「あの、えっと。
……すみません!」
なにも説明できず、彼を押し退けて出ようとした、が。
「準備ができてるのならちょうどいい。
出掛けるぞ」
私の手を掴み、海星本部長は部屋にも入らずUターンする。
「あの、その、私、ちょっと用事が……!」
エレベーターの中、私の手を離さない彼を焦り気味に見上げた。
「知ってる」
「知ってるなら離していただけないでしょうか」
エレベーターは一階を通り過ぎ、地下階で止まった。
ドアが開き、私の手を引っ張って彼はどんどん歩いていく。
そこは駐車場らしく、高級車がずらりと並んでいる。
そのうち、一台のセダンの前で彼は足を止めた。
「乗れ」
助手席を空け、海星本部長が私を押し込む。
「えっ、ちょっと!」
さらには身体を密着させてシートベルトまで締められた。
「降りたらお仕置きだからな」
「ひっ」
耳もとで囁き、さらには息を吹きかけて彼が離れる。
おかげで小さく悲鳴を漏らし、大人しくした。
運転席に回って海星本部長も車に乗り込む。
「俺の想定外だったら困るから一応聞いておくが。
両親が危篤とかじゃないよな?」
「違いますが……?」
想定外とはなにか海星本部長には思い当たる節でもあるんだろうか。
「じゃあ、それは俺の用事だから大丈夫だ」
「ハイ……?」
シートベルトを締めて彼が車を出す。
なにがなんだか状況がまったく理解できない。
「その。
……俺の用事、とは?」
「着いてのお楽しみ……とか言いたいけど。
困るよな」
おかしそうに小さく海星本部長は笑っているが、私は首がもげるほど頷いていた。
「昨日、花音が眠ったあとに各方面に手を打って、花音の元カレ……というのも腹立たしいが、その高志とやらを探し出した」
彼は事もなげに言っているが、いろいろおかしい。
私は借金を背負わされた話くらいしかしていないのだ。
「ああ。
悪いけど携帯の中を見させてもらった。
すまんな」
よっぽど私が間抜けな顔をしていたからか説明してくれるのはいい、いいけれど。
「個人情報……!」
「だからすまんと謝ってるじゃないか」
海星本部長はこれで許せといわんばかりだが、そんな軽く謝って済む問題ではない。
「いろいろアウト、アウトですよ……!」
さらに噛みついたところで我に返った。
しまった、言い過ぎた。
いつもこれで高志から逆ギレされていたのに。
「わかってる。
今回は必要だからやったが、もう二度としない。
なんだったら弁護士に頼んで、誓約書を作ってもいい」
けれど彼は真摯に謝ってきて驚いた。
「あ、いえ。
誓約書は行き過ぎなので……」
この人が高志と違ういい人なのか、これが普通なのか私には判断がつかない。
なにしろ二十八年生きてきて、高志しか付き合った人間がいないのだ。
「そうか?
じゃあ、お詫びになにか買ってやろう。
なにが欲しい?
携帯を買い替えるか。
いっそ新規契約にして、元カレの知らない番号にしてしまうか」
海星本部長はごく普通の顔をしていたが、どうしてか背筋がぞくっとした。
「海星、本部長……?
もしかして、怒ってます……?」
そんな気がして、おそるおそる彼の顔をうかがった。
「怒る?
俺が?
どこにそんな原因があるんだ?」
さも意外だったようで、眼鏡の奥で彼が何度か瞬きをする。
「あ、いえ。
なんでも、ない、……です」
無意識、だったんだろうか、でもさっきの彼は確かに怒っていた。
ううん、怒っているというよりも……嫉妬、しているような。
でも誰に?
高志に?
けれどそんな理由が私にはわからない。
「それで。
高志を探し出してどうする気なんですか」
話が脱線したので、元に戻す。
「反対に聞くが。
花音は自分をこんな目に遭わせたアイツを許せるのか?」
「それは……」
許せるか許せないかといえば、許せない。
でも、借金は書類をよく確かめずに高志に言われるがままにサインをした私が悪かったと思うし、そもそも言われなれない甘い言葉で囁かれて舞い上がり、彼と付き合ったのから間違いだった。
なので全面的に高志を責める気はない。
「わるい。
そこが花音の可愛いところだもんな」
私が黙っているからか海星本部長が詫びてくる。
「今だってアイツに助けを求められて、放っておけなくて行くつもりだったんだろ?」
「……はい」
ちらりと彼の視線がこちらを向く。
海星本部長はなにもかもお見通しなんだ。
「そういう花音だから俺は、助けたいって思うんだよな」
「え?」
なにを言われているのかわからなくて、彼の横顔を見上げる。
「とにかく。
俺は花音をこんな目に遭わせたアイツをそれ以上の酷い目に遭わせないと気が済まない。
と、いうわけだ」
「はぁ……」
楽しそうに海星本部長は笑っているが、やはり彼がなにをしたいのかさっぱりわからない。
ただ、高志の話が本当だとすれば、彼が言っていた弁護士とやらは海星本部長が雇ったんだろうというのだけは見当がついた。