「お待たせしました」
「誰?」
指定された場所で待っていたのは、やはり海星本部長だった。
しかし、私を不審者可のように見てくる。
「いや、待て。
さっきの子か。
化粧落として眼鏡かけると全然変わるんだな」
彼は私をしげしげと眺めているが、まあそれはそうなるだろう。
「でも、どっかで見たことあるな……。
そうだ、右田課長の部下だ」
少し悩んだあと、ようやく答えに辿り着けたのか海星本部長は意外そうな顔をした。
「……ハイ?」
それは私も同じで、間抜けにも何度か瞬きをして首を傾げてしまう。
私だってわかっていたから、店外に連れ出したんじゃないの?
「ならさらに都合がいい、……のか?」
などと聞かれたところで、答えられるわけがない。
「まあいい、とりあえずどっか入るぞ」
「あっ、はい!」
私の腕を取り、彼が歩き出す。
「その。
レイカさんはよかったんですか」
彼女の大のお気に入りらしい海星本部長が、あの状況でもう帰っても大丈夫なんだろうか。
「ん?
ああ、もういい。
用は済んだしな。
あの店にもキャバクラにももう行かないし」
「はぁ……?」
用は済んだって、キャバクラになにか用でもあったんだろうか。
私の疑問をよそに彼は道を進んでいき、入ったのはカラオケ店だった。
「なんだ、そんな顔して」
「いえ……」
勧められてそろそろと、海星本部長の隣に座る。
「ホテルに連れ込まれるとでも思ったか」
右の口端をつり上げ、意地悪くにやりと彼は笑った。
「えっ、あっ、いや」
そのとおりです、なんて口が裂けても言えない。
「ここは個室だからな、聞かれたくない話をするのにもってこいなんだ。
それにまあ、ホテルに連れ込むのは当たらずとも遠からず、だしな」
「え?」
「なんでもない」
なにを言われたのかわからずに聞き返したが、答えてはくれなかった。
しかし、私が会社の人間だと知らなかったのだとしたら、なんで彼は私を連れ出したのだろう。
それに誠実な海星本部長の人柄からして、女性をホテルに連れ込むなど想像しにくい。
そこからいくと彼がキャバクラ通いをしているのすら、意外なのだ。
「で。
なんで我が社の社員がキャバクラなんかで働いてるんだ?」
私のほうへ身体を向け、組んだ足に頬杖をついて海星本部長が聞いてくる。
それは咎めているというよりも面白がっている感じがした。
「あの、えっと、その」
「うん」
にっこりと笑い、銀縁スクエアの眼鏡の奥から彼が私を見つめている。
少し長めのストレートヘアを八二分けにし、緩くオールバックにしているのは清潔感がある。
切れ長な目は涼しげで、右目下のほくろがより彼をセクシーに見せていた。
鼻筋も通っており、唇は薄いけれどキスを誘うように形がいい。
レイカさんが夢中になるのも頷ける。
「……お金が、必要で」
そんないい顔に見つめられ、顔が熱くなっていく。
耐えられなくなって目を逸らし、俯いた。
「なんで金が必要なんだ?
うちの給料はそんなに悪くないはずだがな」
「それは……」
不動産業界でもトップ10に入る会社となれば、普通よりも給料はもらっている。
さらに独身、海星本部長が不思議に思うのも当たり前だ。
自分の恥をさらすのはやはり躊躇われ、口を濁す。
「それは?」
「うっ」
私の顎を掴んで顔を持ち上げ、彼がレンズ越しに無理矢理視線をあわせさせる。
その目は話せと命じていて、たじろいだ。
「その。
……借金が、あって」
結局逆らえず、口を開く。
「いくらだ?」
「……三千万……です」
「三千万!?」
私が額を口にした途端、海星本部長は驚愕の声を上げた。
それはそうだよね、三千万とかそうそう簡単に作れる借金ではない。
「なんだ、投資で失敗したのか?
それともホスト……は、君に限って考えにくいが」
私の顔をよくよく見て、取り繕うように彼が笑う。
キャバ嬢モードの私ならともかく、今の真面目な会社員モードの私ならホストクラブ通いなど考えにくいだろう。
「あー……」
それでも真実を告白するよりも、ホストに貢いで多額の借金を作ったと話すほうが恥が少ない気がした。
「でも意外だったな、君が借金だなんて。
君は真面目で、正義感も強い人間の気がしていたから」
おかしそうに海星本部長が笑う。
彼は私のなにを見て、そう評価していたのだろう。
同じ部署で近くとはいえ、支社と本社では顔をあわせることも少ない。
話となればなおさらだ。
不思議でしょうがないが、そんなふうに私を評価していた彼に嘘を吐こうとしていた自分を恥じた。
どんなに呆れられようと、正直に話すべきだ。
「えっと。
ですね。
彼氏だと信じていた男に借金を背負わされて捨てられまして……」
「は?」
あまりにも想定外だったのか、ひと音発したまま海星本部長は固まっている。
眼鏡の向こうで見開かれた目は、完全に瞳が点になっていた。
けれどかまわずに先を続ける。
「まともな金融業者じゃなかったようで、昨日帰ったら借金取りというヤツが待っていました。
それで、彼氏がいなくなったので一週間後までに三千万を返せ、という話です」
「待て待て待て」
痛そうにその長い指先を頭に当て、彼は数度首を振った。
「男に騙されて三千万の借金を背負わされたのか?」
「はい、そうですが。
笑いたければ笑っていいですよ。
たまたまコンビニで同じお茶を取って、『運命だね』なんて言われて簡単に信じたんですから」
呆れ気味に言われ、一気に捲したててふて腐れてそっぽを向く。
「可愛いな、君は」
「は?」
なにを言われたのかわからなくて、一音発してまじまじと海星本部長の顔を見る。
「ますます気に入った。
し、都合もよくなった」
「はぁ……」
しきりに彼は頷いているが、なんの話をしているのだろう。
「その借金、俺が返してやろうか」
「え?」
自分の耳が信じられず、聞き返してしまう。
「だから。
俺がその借金、返してやろうか」
そっくりそのまま繰り返されても、やはり理解が追いつかない。
「もしかして私の借金、返してくれるとか言ってます?」
「ああ。
さっきからそう言っているが?」
至極真面目に海星本部長が頷く。
それでもやはり信じられなくて、指先を額に当てて考え込んだ。
どこの世界にただ会社が同じってだけの人間の借金、しかも三千万を肩代わりしようなんて人間がいる?
いや、目の前にいるんだけど。
「本気ですか?」
「本気だが」
先程と同じく、真面目な顔で海星本部長が頷く。
「三千万もの人の借金、肩代わりしようなんてなに考えてるんですか」
おかしい、絶対におかしい。
いくら海星本部長がいい人でもありえない。
「誰もタダでなんてなんて言ってない」
私があまりにも疑り深いからか彼は少し不満げだ。
それでもなにやら条件がありそうで、ほっとした。
「俺の子を妊娠してくれ」
「……は?」
あまりにも信じられない条件に、思わず素になった。
今、海星本部長の子供を妊娠してくれと言われた気がするけれど、気のせいですよね?
「ええっと……。
今、海星本部長の子供を妊娠してくれと言いましたか」
「言ったが?」
そうじゃないと言ってくれと期待したが彼は真顔で、がっくりと私の肩が落ちた。
「ええっとー、詳しくお話を聞いても?」
そうだ、そうだ。
ただ、妊娠すればいいとかいう話ではない……はず。
「ああ、そうだな」
海星本部長が居住まいを正す。
「俺が今、弟と後継者争いをしているのは知っているな?」
「それは、はい」
社内でもどっちにつくか、といった話で持ちきりだ。
知らないほうがおかしい。
「父から条件を出されたんだ。
跡取りを先にもうけたほうに、社長の座を譲るとな」
彼は笑っているが、まったくもって笑い事ではない。
「それって海星本部長に不利じゃないですか!」
思わず、大きな声が出た。
弟の一士本部長は結婚しているが、海星本部長はいまだ独身だ。
どっちに軍配が上がるかなんて、一目瞭然だ。
なのにこんな条件を出してくるなんて、よほど社長は海星本部長に後を譲りたくないらしい。
「だからキャバクラに通って相手を探してたんだ。
手っ取り早くたくさんの女性と話せるからな」
彼が理由を話してくれ、これでらしくないキャバクラ通いのわけはわかった。
しかし、探し方が独特というか。
「それで君を見つけたのはラッキーだったな。
弱みを握って脅しやすい。
借金三千万だろ、副業だろ、……ああ。
君のせいで振る舞ったシャンパン代も追加しようか」
「うっ」
右頬を歪め、にやっと海星本部長が人の悪い笑みを浮かべる。
「そんなわけで君は、俺に買われて俺の子供を妊娠するしかないわけだ」
膝に両肘をついて指先をあわせ、私をどうしてやろうかと彼は愉しそうに笑っている。
海星本部長がこんなに、性格が悪いだなんて知らなかった。
「……従わなかったらどうなるんですか」
「反対に聞くが君は一週間で三千万、作れるのか」
「うっ」
それは無理だって自分でもわかっていた。
でも、だからといってただ、彼に買われるのもなんか悔しい。
「作れなければ俺が会社に副業をバラしてクビになるより先に、悪徳金融業者に売られるんだろうな。
風俗はまだいいほう、最悪……なんてこともあるだろうな」
はぁーっとこれ見よがしに海星本部長がため息をつく。
その未来は避けたい、避けたいが好きでもない男に抱かれるのなんて嫌だ。
いやでも、風俗へ行けばそれどころか複数の男を相手にしなければいけないわけで。
しかも海星本部長はまともそうだが、変態だっているかもしれない。
いや、アイツらの話からすると変態の相手ばかりさせられるのかもしれない。
それからいくと海星本部長ひとりだけのほうが断然、マシ……?
しばらく悩んでやっと、その結論に至る。
そのあいだ海星本部長はうーとかあーとか奇声を発する私を、ニヤニヤ笑いながら見ていた。
「……本当に借金を返していただけるんですよね」
「ああ」
したり顔で海星本部長が頷く。
「……会社にもバラしませんか?」
「もちろん」
「シャンパン代は……」
「請求しないとも」
信じていいと力強く彼が頷く。
ようやくそれで、腹が括れた。
「じゃあ。
……よろしくお願いします」
感謝と惨めの交ざった気持ちで頭を下げる。
「わかった」
慰めるように私の頭を軽くぽんぽんした彼の手は、どうしてか優しかった。