「
「はい」
「……すみません。
それで……」
一瞬だけ携帯での通話を中断し、私にお茶出しを頼んで
私も立ち上がり、給湯室へと向かう。
「……どっち、なんだろう?」
マシンからコーヒーを淹れかけて、止まる。
うちの会社には盛重本部長がふたりいる。
盛重
「たぶん、一士本部長のほうかな」
そう判断し、お湯を沸かす。
海星本部長はペットボトルのお茶でも気にしないし、そもそも社員にお茶を要求したりしない。
一士本部長は来たらコーヒーを求めてくるし、しかもそれはきちんとドリップしたヤツだ。
ならきっと、これは一士本部長に違いない。
それに間違っていても、海星本部長なら文句を言ったりしない。
一士本部長だったらたったこれくらいで叱責され、左遷させられかねないが。
「お待たせしました」
「はぁっ」
入ってきた私を見て、一士本部長はあからさまにため息をついた。
だからこそ、右田課長は誰でもない、私に頼んだんだと思う。
「どうぞ」
彼の前にコーヒーを置く。部屋の中は下品な香水の匂いが充満していて、せっかく丁寧に淹れたコーヒーの香りがかき消されてしまいそうだった。
「あーあ。
右田も気が利かねぇなー」
いくら上役とはいえ、自分よりも年上の右田課長に対して一士本部長が悪態をつく。
お気に入りの子ではなく、さらに部内でも一番地味な私がコーヒーを持ってきてご不満なのらしい。
「こんなんだからいつまで経っても出世できねぇんだって、わかんねぇのかなぁ」
ぎりっと強く奥歯を噛みしめたせいで僅かに頭痛がした。
こんな悪口、右田課長には聞かせられない。
確かに右田課長は私が入ってきたときから六年、ずっと課長で昇進できていない。
しかし真面目で尊敬できる人だ。
けれど曲がったことが嫌いな実直な人だからこそ、一士本部長をはじめ上層部の人々にはウケがよくないのも知っていた。
「すみません、お待たせしました」
反論しようかどうしようか悩んでいたら、当人が部屋に入ってきた。
しっしと邪険に追い払うように一士本部長が私に向かって手を振る。
「……失礼いたしました」
悔しさを抱え込んだまま、部屋を出た。
一士本部長はまた、右田課長に無理難題を押しつけに来たのだろう。
我が社のふたりの盛重本部長は社長の息子だ。
特にワケありの長男、海星本部長ではなく次男の一士本部長が後を継ぐのではないかと噂されており、本人もそのつもりなのか好き勝手していた。
「……どうなるんだろ、会社」
給湯室にお盆を戻しながら、憂鬱なため息が出た。
会社の今後も不安だが、それよりも一士本部長が来たということは今日、かなり遅くなるのは確定だ。
あの人はどうでもいい仕事を持ってきては、今日中にやれなんて命じてくる。
「……また高志から怒鳴られるかな」
自分の予定から外れると同棲している彼氏の機嫌が悪くなる。
それを想像してまた、憂鬱なため息が出た。
なんだか暗い気分で部署に戻りかけたら、向こうから急ぎ足で歩いてきた男性にぶつかりかけた。
「おっと、すまない」
「いえ……」
見上げた彼は我が社のもうひとりの盛重本部長、海星本部長だった。
「すまない、一士がこちらに来ていると思うんだが」
ふわっと僅かに、上品な香りがする。
それだけで彼が、一士本部長よりも上等な男性だと感じさせた。
「はい、応接室に」
「ありがとう」
彼はお礼を言って立ち去りかけたが、すぐに足を止めて振り返った。
「アイツはまた、きっと君たちに迷惑をかけに来たのだろう。
すまない」
真摯に詫びられたが、図星なだけにどう返していいのかわからない。
「いえ、海星本部長のせいではないので……」
「詫びにもならないがこれで、皆でなにか食べてくれ。
できるだけアイツの無理難題は止めてくる。
じゃあ」
財布から抜き出したお札を数枚ほど握らせ、今度こそ彼は半ば駆けるように応接室へと向かっていった。
「一士!」
「げっ、海星!」
すぐに勢いよくドアが開き、言い争っている声が聞こえてくる。
けれどドアが閉まると同時に聞こえなくなった。
「……海星本部長も大変だよ」
手の中のお札は彼の誠意だ。
それがわかっているだけに、同情した。
ありがたく今日はこれで、みんなで夜食に豪華お弁当を取らせてもらおう。
仕事が終わり、住んでいるマンションに帰るとふたりの知らない男が待っていた。
「……えっと。
どちら様でしょうか」
鍵は……恋人で同居人がよくかけずに出掛けるので、開いていたのかもしれない。
それでも不法侵入には違いなく、さらに土足でリビングのローテーブルに座っているとなれば、完全に不審者だ。
身の危険を感じ、後ろ手で今閉めたばかりの、ドアのノブを掴む。
「まーまー、そう警戒しなさんなって」
ふたりのうち父親ほどの年に見えるほうがにっこりと私に微笑みかける。
それは完璧に胡散臭かった。
私よりも少し若そうなほうがこちらへ向かってきて、私の腕を掴む。
「えっ、離して!」
抵抗したものの、ずるずると部屋の中へと引きずり込まれていく。
最後には年配の男の前へ転がすように放り出された。
「
知ってますよね」
抗議の目で黙って男を睨み上げる。
知っているもなにも、高志は私の恋人だ。
男が煙草を咥え、若いほうがすかさず火をつけた。
「彼が私どもから借りたお金を返さないまま、いなくなりましてね」
困っているんだといわんばかりに男が煙草の煙を吐き出す。
それは酷く、芝居がかっていた。
けれどこれで、だいたいの事情は飲み込めた。
高志が借りた金を私に返せ、というのだろう。
そして彼らはきっとまともな金融業者では、ない。
第二ボタンまで外された、年配の男のシャツからは下品なゴールドのチェーンが覗いている。
若いほうは白シャツに黒パンツと清潔感に溢れているのが意外なくらいだ。
「一千万……だったか?」
尋ねられて若いほうが首を振り、年配の男へ耳打ちする。
「すみません、三千万でした。
借りた金は一千万だったんですけどね、利子が付きまして。
三千万になってました」
おかしそうに男は身体をゆすって笑っているが、まったく笑い事ではない。
それでもそのお金には心当たりがあった。
きっと高志が店を開くのに資金が必要だが無職のオレでは借りられないからと頼まれて、保証人になったやつだ。
しっかり書類を確かめず、高志の頼みなら仕方ないとサインした自分が悔やまれる。
「耳を揃えて今すぐ……と言いたいところですが、さすがに無理ですよね。
一週間。
一週間待ちますから、そのあいだにお金を用意してください」
見下すように男が、右の口端をにぃーっとつり上げる。
「……用意できなかったらどうなるんですか」
一週間で三千万なんて大金、準備できるはずがない。
そもそもそんなお金があれば高志に貸していただろうし、こんな事態にはなっていなかった。
「そうですね……。
まあ、身体で払ってもらいましょうかね」
いやらしく男がふたり揃ってニヤニヤと笑う。
「おやっさん。
こんな地味女、買うような男はいやしませんよ」
私を一瞥した若い男は、完全に私をバカにしていた。
それにカッと頬が熱くなったが返す言葉はなにもない。
長い黒髪をひっつめひとつ結び、なんの変哲もない黒スーツに身を包み、化粧っ気もなくお堅い黒縁眼鏡をかけた私は会社でもお局様と呼ばれていた。
まあ、それは半ば愛称のようなものだったので、そこまで気にしていなかったが。
それでもバカにされるのは腹が立つ。
「NG行為なしならいけるんじゃないか?
それとも手っ取り早く、腎臓売るか」
「金持ちの変態に売って、オレらがもうけるって手もありますよ」
「ありだな、それ。
迷惑料ももらわなきゃいけないし」
本人を前にして男たちは最低な相談をしている。
それに反吐が出たが、なにか反論したら一週間後どころか速攻売られそうで口を噤んだ。
「そんな具合で一週間後、またお邪魔します」
男は吸い終わった煙草を床に落とし、靴で踏み消した。
「よろしくお願いしますよ」
態度だけは慇懃に、男たちは帰っていった。
「……はぁーっ」
ひとりになり大きなため息が漏れる。
お気に入りのラグは煙草の火で焦げ、黒い汚れになっていた。
床まで焦げていないか、祈りたい。
「どうしよう……」
一週間で三千万も準備できる当てはない。
親類縁者から掻き集めればなんとかなるかもしれないが、迷惑はかけたくなった。
それでなくても親は自営業で、昨今の物価高や増税で喘いでいる。
とりあえず、高志に電話するが、繋がらなかった。
融資の書類にサインしたのが半月ほど前。
先程の男はいなくなったと言っていたし、最初からそのつもりだったのだろう。
「自業自得、……だよね」
はははと乾いた笑いが私の口から落ちていく。
だいたいこんな地味女、相手にするような男がいるわけがない。
いるとしたら身体目的か金目的かだ。
高志はその両方だったってわけだ。
なのに、慣れない甘い言葉を囁かれ、冷静さを失っていた自分が嫌になる。
「とりあえず、なんか割のいいバイト……」
床にぺたんと座り込み、バッグから携帯を出して掴む。
【高収入短期間】などと検索窓に打ち込んだ。
「……はぁーっ」
結果を見てまた、ため息が漏れる。
まともな職ばかりオススメされ、高時給も一五〇〇円。
一週間で三千万には圧倒的に足りない。
身体を売る気はさらさらないが、今度はそれでも夜職で検索をかけてみる。
「一ヶ月で一千万……」
キャバクラで人気なら月に一千万オーバーも夢じゃない、なんて見てまたため息が漏れる。
それでもまだ足りない。
それに地味な私が一千万も稼げるなんて思えなかった。
「うん……まあ……」
しかし三千万は無理でも、一週間後にそれなりにまとまったお金を返せれば、男たちはさらに猶予をくれるんじゃないかという期待が持ち上がってくる。
それにやっぱりキャバ嬢がダメなら身体でお金を稼ぐしかないんだろうし、ならダメ元でやってみようと、体験入店を申し込んでみた。
「なんとかなりますように……!」
なんとなく、神様に祈ってみる。
ただ、問題は我が社は基本、副業禁止なので、バレたときだ。