その日の放課後。
拓は偶然清美と同じゴミ捨て当番となった。
普段なら奈海からの誤解を招かないよう極力話しかけないが、先日のことや今日の異様な仲の良さも気になるので「なぁ、奈海となんかあった?」と尋ねた。
「ふーん。ちゃんづけやなくて呼び捨てするん?」
「別にそこはどうでもええやんけ」
「他の人らん前では苗字やのに?」
逆に質問を返し、素っ気ない態度で言葉を重ねてくる清美に拓は一瞬ぐっと詰まった。
「あ……あんま名前で呼びすぎたら、バレるし、迷惑かける思てるから……て、それはどうでもええねん。俺の質問は?」
このままでは清美のペースに飲まれる、と察した拓が再び口調を強めて質問をすると、変わりに「はい」と大きなごみ袋を渡された。当番であるので渋々受け取ると、清美は軽い方の長細くて四角いゴミ箱を軽々と抱えた。そうして清美は拓の前を歩くと、肩越しに可愛らしく振り向き、「さ、どーでしょ?」と答えになっていない言葉を返し、にやっと笑った。
「んだよそれ、意味わかんねっ。奈海に変なこと吹き込んでへんやんな?」
「さぁね~」
ムキになる拓にクスクスと笑いながら清美は先を歩く。
拓は慌ててその横に並び「おい、ちょ、はぐらかすなって」と声をかける。それに対して清美はただ「フフ~♪」と鼻歌交じりの軽い笑い声で返すだけだった。
――その様子は、ゴミを持っていれど仲良さげに歩いているようにしか見えない。
それを、清美に舌打ちをした女子が目を見開いて見ていた。
会話の内容は聞こえていなかったが、どう見ても仲の悪い様子ではない2人に、彼女は奥歯をぎりぎりと噛みしめた。
――私の好きな人を振ったばかりなのに、アイツは
嫉妬の炎が、彼女の中で燃え上がる。
例え自分が、清美より容姿が劣っていると重々自覚していても、嫉妬という感情はどうにもならなかった。
「あ、ゴミ落ちてる」
「別のとこの当番やしええやろ」
「だーめ、はい拾ってくる」
「くっそー……」
清美の言葉に渋々従い、拓が清美から離れた。
清美はその様子をからかうようにクスクス笑いながら見、箱を抱えたまま階段を降りようと足をかけた。
――その、階段があるのを。
通りすがりに嫌がらせ程度で押すだけのつもりだった、嫉妬におぼれた女子には。視界に、入っていなかった。
ドン
「キャ――」
短い悲鳴を上げ、バランスを崩す清美。
そして、体が浮き、ゴミ箱が手から離れた。
落ちる
手すりを掴もうにも、そんな咄嗟の反射神経など持ち合わせていない清美は襲い来る衝撃に構えるべくぎゅっと目を閉じることしかできなかった。
そして、次の刹那
「清美!」
「えっ」
名前を呼ばれ目を開けた清美の視界に移ったのは。
親友の、額に汗を浮かべた切羽詰まった表情だった。
奈海は、運動神経がいい。
特に足が速いのが自慢だった。
渡り廊下を歩いている途中に、舌打ちをした女子が清美をじっと見ているのを窓から見た奈海は急いで駆けていった。
その姿に、どうしようもなく胸がざわついたのだ。
できれば杞憂で終わって、何もありませんように、と願って走ったのだが、その嫌な予感は的中してしまった。奈海がついたときには、ギャルが思いっきり清美に向かって腕を伸ばしているところだった。
全力でダッシュし、スローモーションで落ちていく清美を咄嗟に掴んだ。
けれど、駆け付けた反動で奈海の身体も前のめりになる。
清美の腕を掴むと同時に手すりもつかんだのだけれど、慣性の法則に耐えられず、しかも2人分の体重を支えるには奈海の腕一本では足りなさ過ぎた。
視界の端にゴミ箱が転がり落ち、プラスチックの角を割っていくのを見てぐっと歯を食いしばった。
落とす、ものか
「おぉおぉおおりゃああああ!」
女子とは思えない低いうなり声を上げながら踏ん張り、清美を引っ張り上げる。
瞬間、奈海と清美の場所が入れ替わった。
勢いよく引き上げられた清美は階段の上でよろけ、すぐそばの壁にもたれかかるようにぶつかり倒れた。これで、下へと転がり落ちる心配はなくなった。
――よし
奈海は手すりを掴んでいた手にギュッと力を込めた。
ぐん、と腕が突っ張ってちぎれそうな痛さがあったが、なんとか自分の身体を支えるのには成功した。
浮遊感がなくなり、まだ危うい体制だがなんとか落下を防ぐことに成功した。
無理に動かした足や腕がジンジンと痛んでいたが、奈海は何とか危機を免れたと安堵し体制を立て直そうと重心を移動した。
その、瞬間だった。
「お前もうぜえんだよ!」
その叫びと共に、お腹に激痛が走る。
手すりから、手が離れた。
視界の端に一瞬移ったのは、小汚い上靴。
奈海の足が、階段から離れ、宙に浮いた。
落ちる――
「いやああああ!」
「奈海!」
最初の悲鳴は清美だった。
けど、次に聞こえたのは――
ドンッ!
声を聞いた後に頭に強い衝撃が走り、奈海の意識はそこで途切れた。
――どれぐらいの、時間がたった後か。
奈海が目を覚ました時に見たのは、あまり見慣れない天井だった。
「あら、丁度目が覚めたのね。大丈夫?」
そう言って顔を覗き込んだのは、見慣れた顔だった。
保健室の先生だ。虐め事件の際にお世話になった顔だ。
「……あ、れ?」
身体を起こそうとするが、異様に頭が痛くて起こすのをやめた。
後頭部が、ズキズキと痛い。
「どこが痛い?」
「ここ……」
聞かれて、痛む部分をさすると、保健室の先生は奈海が手を当てている部分にそっと触れ、髪の毛をかき分けた。
「うん、たんこぶが出来てるわね。……これだけですんで、本当によかったわね、彼氏に感謝しないと」
「はい!?」
彼氏、という奈海に無縁でしかないワードに、奈海の声がものすごく裏返った。先生は心底楽しそうに口端を持ち上げ「階段から落ちた貴女を受け止めてくれた男の子よ」と微笑んだ。
そうして両手を大きく広げると「こう、ギューッとしっかり抱きとめてね~」と、自身をオーバーに抱き締め「俺がコイツを守る! て感じで……ハァ、若いっていいわねぇ」と実演してから、頬に手を当て愁いの帯びたため息をそっと吐いた。
「え、ええ……えええ!? ちょ、ちょちょちょ、それ誰!? 覚えてない、えええ!?」
記憶に全くないことを言われ、顔を真っ赤にしてパニックになる奈海。
すると、それまで楽しそうな先生の顔がさっと曇った。
「……あなたのせいじゃないから、落ち着いて聞いてね」
「え?」
”あなたのせいじゃない”
この言葉は。
ひどく、不吉な響きがあって。
先生の急な表情の変わりようも相俟って。
奈海の胸をドク、と大きく波打たせた。
「受け止めた子はね、新田さんが受けるはずだった衝撃を全部受けたの。しかもそれだけじゃなくて、転がって落ちるのじゃなく、浮いて落ちたからそのまま落下したのが悪くて……その、姿勢も悪かったの。さらに彼、片腕で衝撃を受け止めようとしたものだから――」
起きた際に手元にあった布団に添えていた手が、無意識にぎゅっと布団を握りしめた。
心なしか、全身が震えていた。
「だから彼は今病院。あの腕の曲がり方は、ただの骨折じゃなくて複雑だろうから――」
「ねぇ、先生」
奈海は声を震わせて言葉を遮った。
容体はもう十分わかった。
奈海がその生徒のおかげで命が助かったのもよく分かった。
なら、知りたいのは一つだけ。
――それは、誰?
先生が彼氏と間違えたその男子は、誰
言葉は出せないが、震えながら見つめる様子で聞きたいことを察したのだろう。先生は言いにくそうに眼を伏せると、静かに、その名を呟いた。
「貴方と同じクラスの男の子。……久藤、拓君よ」
その名前を聞いた瞬間。
心臓に直接、鋭いナイフがつき刺さった。
――そんな、感覚に陥るほど。
奈海の心は、痛みでえぐられた。