諦めろってきっぱり言えばよかった
頑張ってみたら?、なんて安易な言葉を口にした自分を奈海は激しく後悔していた。
手に取ったばかりのノート――けれど、本来のノートの姿ではなく、幼稚な落書きが施されたノート――を見て何度目かの溜息をつく。手に取ってみると湿っていて、まさか、と思ってページを開くとくっついていて開かない。油性マジックで落書きした後さらにご丁寧に水につけてくださっているようだった。
体育で教室を離れて戻ってきてみれば、これだ。
奈海が苦い顔をしながらノートを手にしていると、遠目からギャルたちがこちらを盗み見ながら何やらコソコソ話しては笑っていた。あれだけ恥ずかしい思いをしたのだから彼女たちは何もしないと思ったのだが――犯人は、彼女たちなのだろうか。しかし、こちらを見ているというよりは、単純に喋っている途中に視線が泳いでいるからこちらを見ているように思えてしまえるだけな気もした。
それ以前に、虐めの証拠にもなるし目立つしいくら馬鹿な彼女たちでもそこまではしないという結論にどうしても致る。
――とにかく、困るな
とりあえず勉強に差支えのあるものは困るので奈海は新しいノートを鞄から取り出すと、その新品の固いノートを目の前の席にある頭に振り下ろした。
パシ、といういい音がして「いたっ」と呻く声が上がった。
「……もうちょい、優しく声かけるとかできん?」
頭をさすりながら拓が振り向いた。
そんな彼に対して「無理」とキッパリ言い放ち「これ」と汚いノートをかざした。
「うわ、何それひっで」
ノートの惨状に嫌な顔を露わにしてから、奈海の恨みがましいどんよりした目つきに気づくと、ハッと何かを察したようでバツの悪そうな表情に変わった。
「……ノート、見せて」
簡潔に、奈美は要件を述べた。
誰にやられたかわからないものを決めつけで犯人らしき人物を口にした場合、もしそれが間違っていたら。これだけ真剣に奈海と向き合おうとしてくれる拓のことだ。後で濡れ衣だったとわかっても優しく接するようなことは一切しないだろう。
だから奈海は、誰がやった、やられたなど一切言わなかった。
かといって自分でやったわけではないのでそれも言わなかった。
ただ、「こんなノート使えないから何も聞かずなんとかして」と目で訴えた。
一見、それは見つめ合っているようにも見えたかもしれない。
その行動が、とある人物に余計癪に障ったかもしれない。
けれど、恋愛に疎い奈海には、そこまでの気配りはできなかった。
奈海の渾身の目の訴えに「……しゃーねーなー」と頼られることに悪い気はしていない拓は鞄を探ろうとした、その瞬間。
「奈海、困ってるなら私に言いなよ。水臭いなー」
可愛らしい声が奈海にかかった。
「あ、清美」
奈海が呼んだ名前に、鞄を探りノートに伸ばしていた拓の手が止まった。
拓が、振り向かない程度に奈海の方を見ると、にっこりとした天使の笑顔を浮かべた清美が「はい、これ貸してあげる」と奈海に可愛らしい表紙のノートを渡していた。
水色のシンプルなデザインの表紙である奈海のノートに比べ、ピンク色の表紙にシールやらマジックやらでデコられた表紙のノートの女子力の違いは、目で見て明らかだった。
仲いい友人同士なのだから、ノートを見せ合うなど普通の光景。いや、最早友人なら当たり前の光景と言っていい。
それなのに。
拓には、清美の笑顔に胡散臭いものが見えてならなかった。
何より、そのノートを見せびらかすように、注目を浴びる様に大きめの声を上げて交換をしているのが、女子力のマウントをとっているようにしか見えない。
悪く、取りすぎかもしれない、けれど。
心から信じ切っている、と言わんばかりの奈海の笑顔と向き合っているからこそ、清美の優し気に見える笑みのうさん臭さは際立っているように見えた。
なんとなく、拓の胸がざわついた。
――まさか。……いや、でも
「ありがとー。やっぱり持つべき友は清美やね!」
「それほどでも。お役に立てて何よりやよ」
笑い合う、仲良しの2人。
普段1人を好む奈海が一緒に居る唯一の女子。
その様子を盗み見ながら拓は、この間の清美を思い出す。
猫なで声を出し、媚びるような上目遣いでアピールをしてきた清美。
もし、あの行動の中に本気の気持ちがあるのなら。
もし、それを奈海が知っているのなら。
――彼女の存在のせいで?
奈海は、俺を受け入れないのか
そんな思いが過って、フッと自分自身に嘲笑する。
――いくら何でも考えすぎだ
それに彼女さえいなければ、なんて。
俺ってどんだけ俺に自信があんだよ。
奈海はちゃんと別の理由を言っていた。
拓は邪悪な考えを振り払い前に向き直って机に頬杖をつくと、もう振り向かなかった。
大事な友達との楽しい会話を邪魔しないように。
何より、奈海の楽しそうな声を聞くのは拓にとっても楽しかったからだ。普段、拓に向かってはほとんど笑わない奈海の楽しそうな笑い声はとても耳に心地よかった。
――こんなに耳に心地よくて、綺麗な響きをする声だったんだな
そんなことを思って、清美の存在に荒んでいた拓の心が、少し温かく和らいだ。
この何とも言えない出来事のせいで、拓は奈海のノートの悲惨な状況について考えることをすっかり忘れていた。
だから、拓が止めることは出来なかった。
むしろ、関わったのはこの序の口である最初のノートだけだった。