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「うお」


 何とか清美をまいてホッとし、教室の中に入ろうと扉に手をかけた瞬間。ゾクっと襲い来る寒気に拓は肩を震わせ声も思わず漏れた。

 こういう嫌な予感がする時は、大抵恋愛ごとに関するトラブルが起こりがちなので拓は顔をしかめた。かといって、教室の前で悶々と悩んでも仕方がないので「まぁなるようになれ、だな」と呟き扉を開けた。


「お、よー拓。今日は早いなー」

「拓おはよー」

「おはよー」


 拓の登場に、すでに教室にいたクラスのメンバーが声をかけてきた。

「おう、おはよ、はよー。よ!」

 笑顔で挨拶を返し、仲の良い友とハイタッチをする。

 容姿と、この明るい性格のおかげで声をかけないクラスメイトはほぼいない。声をかける勇気のない者でも、必ず拓には視線を向ける。


 ただ、1人を除いて


 まだ授業の始まっていない時間だからか、耳にイヤホンをつけて勉強に勤しんでいる奈海が隅の席にいた。よっぽど好きな曲が流れているのか、頭をリズムよく揺らしながらペンを走らせていた。

 真剣そうな、だけどどこか楽しそうな表情。

 先ほどの不機嫌で心底嫌そうな表情からは到底想像できない表情に、拓はついじっと見惚れてしまった。こちらまで微笑んでしまいそうなほどの口角の綺麗な上がり方は”今を楽しんでいる”という様子がよくわかり、見ていて飽きないものがあった。


――そういえば


 どうしてあの時、階段の上で一人で泣いてたんだ?

 知りたい。

 なんせ、あの姿を目にして改めて惹かれたのだから。


 拓は奈海の目の前の席にカバンを置く。

 大きめの音を立ててみたが、奈美はちらっと一瞬こちらに視線をやるだけでそれ以上は気に留めもしない。それどころか、片手をイヤホンに添え、耳に押し付ける様に当てて周りの音を遮断する素振りをしてみせた。

 まぁそんな反応だろう、と予想はしていた。


 だから、拓は。


 他の目があるのを分かっていて、奈海のイヤホンを素早く奪い取った。

 そして間を開けずさっとキスしそうな勢いで顔を近づけて――多分、ちょっと唇が彼女の頬に触れたかもだが、それは不可抗力ということで――拓は、耳元にささやきかける。


「おはよ」

「ひゃっ」


 息の触れた耳を抑え奈海は顔を上げた。

 頬が赤らんで、驚き、困惑した表情。

 聞いたことのない裏返った声と、見たことのない表情。

 何となく、勝った、と拓は思った。


「おはよ」


 顔を少し引き、奈海の顔を真っすぐ見つめながら笑顔を向けて言った。

 屈託なく、笑えた気がした。

 そしたら奈海は、困惑していたが「おは……よう」と挨拶を返してくれた。

 挨拶を返してもらうだけで、こんなに嬉しくなったのは初めてかもしれなかった。

 拓は、無邪気に「へへ」と笑った。

 奈海は少し恥ずかしそうに目を伏せると肩に落ちたイヤホンを付け直し、再び勉強に没頭した。

 けれど、さっきとは違って楽しそうな様子ではなく、ペンを持つ手は動揺が見てわかるほど震えていた。


――よし


 少なくとも、意識はしてもらえている。

 そう判断した拓は、奈海の心の中に一歩足を踏み込めたことに機嫌をよくし授業の準備を始めた。

 ……ご機嫌で、気づけなかった。


 周りの、奈海へ向ける視線に。




***





 朝から、予想にもしないことばかりが起こり奈海はずっと戸惑っていた。


……いや、正確には昨日から、か。


 誰も通らないと思ったのに、運悪く学校にいる男子の中でも目立つ久藤拓くどうたくに見られてしまった。


 泣いている姿を。


 大好きな祖父が入院したという報せを聞いて、気持ちの整理が中々つかなくて胸が苦しくて、誰にも見つからないようこっそり泣いていたのに。死んでしまう、とかそういう入院ではなくて、たんなる経過観察のための入院だから大したことはない。

 だけど、入院、ていう単語に、祖母のことがあったために過剰に反応した奈海の脳内で「おじいちゃんがいなくなるかもしれない」という思想がリアルに浮かんできて気持ちが追い付かなかったのだ。


 人はいずれ亡くなる。

 それをわかっていても、今まで居て当たり前だった存在が消えるこの瞬間だけは、急に受け入れるというのは難しい。

 人の気持ちって複雑だ

 いや、私がめんどくさいだけか?



『青い内にやりたいことを精一杯やりなさい。……でないと、後悔するのは自分だよ』



 ふと、数年前に亡くなった祖母の言葉が頭を過った。


 いつもニコニコしていた祖母が、亡くなる数日前に残した言葉。

 とても切なく、人生に後悔を残している、と書かれた表情と共に呟かれたその言葉。

 中学になったばかりの私はそれがどういう意味で言っているのかわからなかったが、答えるべき言葉はくみ取れたので「うん、わかった」と笑って答えた。

 それに対し、祖母はいつもの柔らかくて暖かい皺くちゃの笑みを浮かべて『奈海ちゃんは賢いもんねぇ。そうだ、お祖母ちゃんが亡くなる前に、これをプレゼントしましょう。奈海ちゃんが、人の気持ちを大事にできる人になりますように……』と言い、奈海の手に分厚い本を渡した。

 それは<私の青春>と書かれた本だった。

 作者は、祖母の名前だった。

 ビックリして祖母を見ると、少し恥ずかしそうに肩をすくめた祖母は言った。


『人生最大の宝物。お祖母ちゃんが書いた小説だよ』


 その本は――今でも大事に自室の机の中にしまっている。


 祖母の青春時代が全て詰め込まれたその小説を読んだ奈海は、人の人生一回分の青春を経験した気分になっていた。

 だから、他の人より考え方が違ったり、妙に大人っぽい、と言われてしまう。そのせいで距離を置かれてしまうことが多いが、1人が楽だということをよく知ってしまっている奈海は取り繕うことを一切しなかった。

 疎まれても、蔑まれても、自分が気にしなければなんとかなる。何とかならない人が多いこの世の中じゃ、とても難しいことをしていることになるのだろうか。



 先生の授業を聞きながらぼんやりと思想に耽る。


――感情って、本当にややこしい


 奈海は、黒板をノートに写す際にどうしても目に移ってしまう拓の背中を見た。華奢に見えて、結構男らしい大きな背中をしている拓。

 サラっとした清潔感のあるマッシュショートの黒髪で、時節見える横顔は漫画の中から出てきたようなイケメン王子顔。

 昨日と言い、朝と言い、無駄に近づいてくる明るい性格の拓。

 突然可愛いとか言い始めて心を乱されないわけがない。けれど彼は、とんでもないモテ男君だ。


 彼の気持ちは素直に嬉しい


 だけど、素直に受け取れないのが現状だ。拓が近づくたびに周りの視線が痛いし、それに、何より、本物の好意だった場合、それは猶更受け取れない。

 奈海は頭を下げると額を片手で支えながら肘をつき、気怠そうな姿勢でノートにペンを走らせる。心の動揺をくみ取ったかのように、後ろに適当にまとめていたポニーテールが崩れ頬の横に流れ落ちた。



――私は、1人だ


 1人は楽だ。

 でも、四六時中平気なわけじゃない。

 望んで1人になったわけではなく、合う人が一人もいなくて必然的にこうなってしまっただけなのだ。

 そんな私を察してか、私と一緒に居てくれる友達が1人いる。

 肩に流れるウェーブのかかった黒髪はいつも光で反射するほど艶があって、たっぷりとある重めの前髪は眉毛を隠すぐらいの長さ。Aラインシルエット、と言われるその髪型だけでも小顔に見えるのに、目はパッチリ大きく、色のはっきりしたリップをしているから整った顔立ちがハッキリとしている、この青空高校のお姫様とも言える友人。

 アイロンとか髪の手入れを簡単にしかしておらず、少々枝毛の目立つ髪を雑に後ろでまとめたポニーテールばかりの私とは全く違う人種とも思える友人。

 それが、天使の様に優しく可愛い清美だ。

 男女関係なく好かれて、奈海にとっては眩しいほど輝いた人物。


――ごめんね


 目の前の背中に、心の中で静かな謝罪を呟く。

 無駄に高鳴る鼓動を抑えるために、昨夜清美に貰ったLINEを思い出す。


『私、拓にアタック頑張る!』


 息を短く吸い、深く吐いて。

 緊張や動揺で高鳴っていた鼓動を吐き捨てて、収めて。

 額にあった手を滑らせ、胸元を握りしめながら浅く瞼を閉じた。



――私には


 友達を裏切るという選択肢はないんだ

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