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第54話 魔王

 俺が生きているあいだ、彼女はいくらか竜の術式を解析したが、そのすべてを再現することはできなかった。


 転生の術式はけっきょくのところ『魂の同定』までで進歩が止まっており、そこからさらに再現が進むのは、絶望的なように思われた。


 そうしているうちに俺には寿命が訪れ、彼女の前から永遠にいなくなろうとしていた。


「貴様も我が命に背くのか」


 その命令が『寿命? 知るか。生きろ!』なので、こればっかりはどうしようもないというか。

 とうに老いさらばえた俺とは違い、かつて・・・魔導王と呼ばれた彼女は、相変わらず若々しく、瑞々しく、美しかった。


 赤い髪は火の粉のような燐光を纏っており、その長さは八つ折りにしてまたかかとまでとどくほどになっていた。


 爛々らんらんと輝く赤い瞳にはますます苛烈な光が宿り、それは対面した者を正気でいられないほど恐慌させる力を宿していた。


 ただし俺は、この燃えるような瞳の持ち主の真っ直ぐな視線に、ただ『慣れている』というだけで正気でいられるぐらい、ずっと彼女のそばにいたのだった。


 俺と、妹だけが、死ぬ時まで、彼女のそばに。


 寂れた古城。人のいない領域。

 災厄の王は一人、往年の姿のまま佇む。


 生活などという人間らしい悩みの一切は、彼女には関係のないものだった。

 食事もいらない、睡眠もいらない。溢れ返った熱量のすべてを研究に注ぎ込んで、まれに『己こそが所有者』だということを民にわからせるだけの暮らしをしていた。


 もはや彼女は民を導かない。


 死にたくなければ所有されろ。所有を拒むなら死ね。……そう命じるだけで、民の生活を安んじる役割をすっかり放棄してしまっていた。


 今の彼女は魔王ではない。


 導くことをやめ、魔道にひたすら邁進まいしんするだけの超越存在。

 人界にたまに現れては脅威を撒き散らし、己こそが人類すべての所有者なのだと思い知らせるだけの天災。


 ゆえに人は、彼女を魔王とか━━


 あるいは『魔王』と呼んだ。


「まあいいでしょう。天上天下、この世界に我が目の届かぬところはない。あなた・・・がまた生まれ変わったならば、その時に再び回収しましょう。なにせあたしはまだ、あなたを手放していないし━━あたしの所有者は、永劫にあなただけなのだから」


 彼女は俺の中の魂に語りかけて、その位置に魂があるというように、俺の胸をなでた。


 寝具の中で動けないまま、ただ入れ物として存在する俺は、魔王になにを応えるでもなく、ただ横たわって呼吸をするだけだった。


 その呼吸もじきに止まるだろう。

 八十年というのはこの当時の平均寿命の約三倍にもなるのだ。充分に魔王の『死ぬな』という命令に応じようとしたとは言えるのではないだろうか?


 ……魔王が統治をやめたあと、世界は荒廃した。


 もちろん人もただ黙って衰退するままではいない。

 魔王ではなく実際に政治をする者を立てて、力を合わせようとした。

 ところがその政治方針が少しでも魔王の気に食わないとなると、政治を執り行っていたものはことごとく殺された。


 魔王は勝手をする所有物を決して許さない。


 結果としてもはや人々の旗頭はたがしらとして立つ者も出なくなり、人類は小さな村落をばらばらと作ってそこに閉じこもるように暮らさざるを得なくなったのだ。


 このように社会制度が不安定では、人の寿命も縮むというものだ。


 安定期には五十年とも六十年とも言われていた人の平均寿命は三十年にまで縮み、人口も当然ながら減少の一途をたどっているようだった。


 このような状況を許せず、魔王を討伐しようと聖剣を抜こうとする者もあったらしい。


 けれど岩に刺さった剣は、また、抜けなくなってしまったのだ。


【解析】が遺した『始祖竜の命と引き換えにしないと抜けない』という仕様のせいか、あるいは【露呈】が命を振り絞って魔王の手に聖剣が渡らないようにしたのか……

 事実をとうに解明しているはずの魔王は、なにも言わない。そもそも魂の入れ物でしかない俺に、そんな情報をもたらす理由がないのだ。


 妹は四十年も前に逝った。


 魔王という人外と同じようなペースで魔術研究に従事した結果だった。

 魔術好きの彼女は最期まで魔術好きであり続けた。

 残念ながら、妹の子に、彼女の『魔術好き』は遺伝しなかったようだけれど。


 ……おそらく、魔王の最後の理解者が、我が妹だったことだろう。その死には魔王もいくらか思うところがあるようで、三日はふさぎこみ、七日は世間に八つ当たりをした。


 この世界に唯一の希望が残っているとするならば、それは、聖剣のある場所に魔王が近付かないことだけだった。


 旧・竜の里(始祖竜教はついに完全に潰され、隠れ信徒も発見され次第殺されている)付近は戦争の爪痕をそのまま遺した荒地となったままだ。

 その北西には聖剣の刺さった岩があるのだが、魔王はどういうわけか、この一帯に近付こうとしない。


 それが気分の問題なのか、それとも始祖竜や勇者がなにかした結果なのか、この当時の俺は、やはり、わからない。

 魔王の『聖剣の解析は終わった。もう興味もない』という発言しか情報はもたらされなかった。


 ……俺は、最期まで、なにも成せなかった。


 ただ生きていただけの存在。ただ時代と強者の添え物としてあっただけの存在。


 もしもあの時……始祖竜【露呈】が俺に聖剣をもたらそうとした時に、魔王の癇癪かんしゃくに危機感を覚え、その剣で魔王を討ち果たす意思を持っていたなら、きっと歴史は変わったことだろう。


 けれど、それは無理な話だった。


 俺には強さがなかったのだ。

 ……『力』がなくたって正しいことをしようというほどの、強さがなかった。


 いや、そもそも、なにが正しくて、なにが間違っているのか、俺には最期までわからなかった。


 無数の選択肢が人生の中で幾度もよぎり、そのすべてを選ばなかった結果、俺はこうして、ここにいる。


 ……だから、もしも、次の人生が本当にあるならば……


『次の人生』だなんていうのは、神話の領域で。落ちこぼれの俺にはとうてい信じられない夢物語でしかないけれど。

 本当にそんなものがあって、記憶だか、意識だかを次回に持ち越せるならば……


 次は、胸を張って死にたい。


『なにも選べなかった。なにも成せなかった。結果なんか出せなかったし、そもそも、努力さえできなかった。もしもあの時違った選択をしていたら、もっといい今があったかもしれない』という後悔を抱きながら死ぬのではなく……


『俺は、生ききった』と思いながら、死にたいと、願った。


 ……そうして、【露呈】の時代は、本当に終わった。


 五柱の竜が滅び、残すは二柱。


 第四にして第五の災厄は健在で、人々は絶望的な衰退の中にある。


 ……これがどうにかなるようにはあまり思えないのだが……


 現代、目の前にいる元【静謐】が続きを語りたそうに微笑んでいるので、きっとたぶん、なんらかの明るい未来はあるのだろうと、そう思うことにして、この時代の話は、これでおしまいとしよう。

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