現代の視点から言わせてもらうと、魔導王の行った『人為災厄化』では、厳密に言うところの『災厄』にはなれていなかった。
というのも、災厄というのは巨大な感情に精霊が集まって成るものだ。
本人にさえコントロールできない感情が、他の者の感情さえもその
理性的な災厄という例外である魔導王=【守護】は、災厄の本質を『
ただし、始祖竜殺しという目的のための道具としては、たしかにこの人為災厄化……『偽災厄』は有用だった。
勇者軍が騎乗動物をかって駆けつけた時、始祖竜【露呈】はすでに立っていられないほど弱体化し、その身に
だからこの当時の俺は魔導王が本当にこの時点で第四災厄にして第五災厄になったものだと思い、味方である彼女の超強化にわけもわからず誇らしい気持ちになった。
……彼女が彼女の努力で強くなったことに、本来であれば俺が喜ぶ筋合いはないし……
彼女は
「っ、うぅ……! 【変貌】姉様に認められた勇者よ、あの災厄を倒しなさい……!」
【露呈】が苦しげに言うと、すぐさま彼女の後方から『勇者』が飛び出してきた。
すると魔導王は、こう述べた。
「私に次ぐ魔術師たる貴様に命じます。勇者を足止めしなさい」
つまり、俺と同様、状況についていけず固まっていた妹への指示である。
すぐさま━━とはいかなかったが、魔導王が「早く」と静かに、けれど逆らい難い重みの声で言うと、妹は杖を構えて勇者へと魔術を放った。
だが、ただの攻撃魔術は無視される。
『不変』の
どれほどの大規模攻撃魔術だろうが、【変貌】の加護を打ち抜くぐらいの法則外の
「なにを学んだのですか。こうするのです」
魔導王が見本とばかりに『壁』を出現させる。
魔術により形成された壁は、勇者の四方上下を囲んだ。
その分厚さたるや百年前に形成できた壁の比ではなかった。いや、つい先ほどまででさえ、ここまでの規模・質の魔術を、こんなに一瞬で練り上げることはできなかっただろう。
彼女は過去と現在の災厄の『力』をたしかに持っていた。
「破られても構いません。破られたならすぐさま壁を作り直し、私が始祖竜【露呈】を殺すための時間を作るのです」
妹は「は、はい」と一瞬言葉に詰まりながらもうなずく。
それは絶対的上位者の命令に怯えたわけでも、迫り来る勇者の圧におされたからでも、ましてや始祖竜【露呈】がこちらをにらんでいるからでもなかった。
妹は魔導王の行った魔術に感動していたのだ。
自分では想定さえできなかった質、速度、規模。
おおよそただの人間では想像さえ許されないほどの、魔術の深奥の先の先を目の前にして、
魔導王の作り上げた壁は、永遠に勇者を閉じ込めるほどではなかったが、数分の時間を稼いだ。
そのあいだに練り上げられた妹の魔術が、勇者を再び拘束する。
それはすぐさま破られたが、次々に妹は魔術を用いて勇者の拘束を続けた。
……妹は、楽しそうだった。
拘束一回一回に、それぞれ違った工夫があった。
彼女は、始祖竜、勇者、魔導王にして災厄というこの世界の頂上決戦の舞台において、それでも魔術を研究していたのだ。
勇者は次々現れる壁を斬り破り、ついに、叫んだ。
「『破魔の軍』に命じる! 私を拘束する魔術師を殺すのだ!」
それは勇者軍において『対魔術師』を想定して練り上げられた最強の超精鋭部隊の名だった。
体格、知力、熱意……すべてにおいて優れた者を、十年も二十年も異常な鍛錬の中におき鍛え上げた、勇者の抱く対魔の剣なのである。
それを魔導王ではなくその部下たる妹に差し向けたのは、破魔の軍をしてさえ今の魔導王にはなんの
……実際、【露呈】を守ろうと陣列を組んで戦っていた『破魔の軍』は魔導王に蹴散らされていたのでその判断は正しいのだが……
執拗に拘束を受けながら、真後ろで起こっている破魔の軍と魔導王の戦いの様子に気を配り、さらに『壁』に声が邪魔されない一瞬で指示までしてみせるというのは、後ろに目でもついているのかという感じだ。
そうして異常なまでに鍛え込まれたたった十名の軍隊が妹に向けて進撃を開始した時、俺は、我知らず動いていた。
俺にできる精一杯まで練った魔術により火球を生み出し、それを『破魔の軍』の進路上に放ったのだ。
人の頭部大の火球、という、目の前で行われている世界の頂上たる戦いの中では針のひと刺しにも等しい一撃は、たしかに妹に迫っていた『破魔の軍』の足を一瞬だけ停滞せしめた。
そうして、その一瞬で、状況が大きく動いた。
魔導王の風の刃が、始祖竜【露呈】の命に届いたのだ。
「始祖竜という連中は核を貫かれてもしばらく生きていますね。本当にしぶとい……まあ、いいでしょう。これで聖剣の封印は解けたはず」
魔導王がつまらなさそうに言いながら杖を振る。
背後を
始祖竜【露呈】は貫かれた胸をおさえて苦しげにうめく。
「勇者……【変貌】姉様を、魔導王より、先に……!」
……そう、ここから例の『木の根に刺さった剣』のある場所までは、かなりの距離がある。
加護持ちの勇者と、魔術により加速ができる魔導王が全力でそこまで競走したならば、到着は僅差となるだろう。
それはもちろん偽災厄の能力を差し引いてのものだったが、勇者側に残された希望は、偽災厄の力が速度にさほどの優位を生んでいないと信じて、駆け抜けるだけなのだ。
だが、そんな希望を魔導王は残しておかない。
「これはこれは、始祖竜は冗談がお好きなのですね。貴様、以前に、
言うとほぼ同時、魔導王の手の中に『聖剣』が出現した。
これには【露呈】も目を見開いて驚く。
「……ヒトが、竜の魔術を……!?」
「ところで、貴様らのやっていることを『魔術』と呼ぶのはやめません? 我々は精霊に命じて奇跡を起こさせている。貴様らは精霊を潰して世界に介入している。システムが違うでしょう? まあ、だから同じ方法で再現ができず、苦労しているんですけれど」
「……」
「貴様らが『加護』と呼ぶものは、貴様らの介入を邪魔する精霊を死なせて、貴様らの権能を押し付けているだけです。……けっきょく剥がせなかったのは悔しいけれど、勇者が死ねば私の溜飲もある程度下がる」
聖剣を持った魔導王は、勇者へとゆったり近付いて行った。
勇者は、動かなかった。
もはや
だから敗北を受け入れた勇者は
けれど、そうではなかったのだと、すぐあとに思い知らされることになる。
始祖竜【露呈】が、血を吐くように叫んだ。
「聖剣を、勇者へ!」
……それは、竜の魔術の行使。
魔導王がやすやす成し遂げたように見えた『転移』の術式。
それを本来の使い手である竜が、身命に残った最後の力を使って行使したのだ。
その代償に、もはや消えかけだった【露呈】は、ついにその全身を世界に溶かすように消えていったが……
聖剣は、勇者の手に渡った。
加護持ちも、始祖竜も━━災厄さえも斬り伏せるとされる、竜が変貌し、竜により鍛えられ『超越存在殺し』の剣が、竜の手により、勇者へと譲渡されたのだ。
「【変貌】姉様の決意を成しなさい……災厄を斬りなさい、勇者━━」
始祖竜【露呈】の最期の声だった。
勇者は黄金の刃物をしばらくじっとながめ、それを空に掲げるようにしたあと━━
刃を、己の胸に突き込んだ。
「は……!?」
それは魔導王の声だったのか、俺の声だったのか……
妹の声かもしれないし、追いつき始めた魔術師たちの声だった可能性もあり、支援のために後方に控えていた勇者軍の誰かの漏らした声の可能性もあった。
とにかくその場の全員が、今、目の前で起きたことを信じられずにおどろき、固まり、目を見開いた。
勇者は己の胸を貫通した剣の柄を放し、突き刺さったままの刃に軽く指を滑らせた。
胸の穴からも、滑らせた指先からも、血が滴り落ちる。
それを見て勇者は、安堵したように微笑んだ。
「すごい、本当に死ねるんだ」
勇者以外でもっとも早く我を取り戻したのは、魔導王だった。
「なに、してるの、貴様は……? お前……お前の命は! お前の命は、あたしが奪うって言っただろ!? だっていうのに、なんで勝手に死のうとしてるわけ!?」
「…………ああ」
それは、自分のしでかしたことにたった今気付いたとでも言わんばかりの声であり、ますます魔導王を刺激するものだった。
「ししょーを傷つけて殺したお前は、あたしが殺すつもりだったのに! お前の命を奪うために、あたしがどれだけ研究を重ねて準備したと……! 死ぬな! 勝手に死ぬな! ふざけんな! ふざけんなよ! 死ぬならあたしに殺されろ! あたしのものを勝手に奪うな!!」
「ごめん、我慢できなかった」
「そんなことで、あたしの悲願を、目の前でかっさらった……!?」
「本当にごめん。……これで、君も独りぼっちになってしまう」
勇者の指先から、胸から、血が花びらとなって舞い散り始める。
その花びらは勇者の存在そのもののようで、一枚落ちるたび、どんどんその存在感が希薄になっていくのがわかった。
死にゆく勇者は、少女のようにも見える美しい顔に、気遣わしげな笑みを浮かべていた。
「すまない、魔導王。君とこうして競い合ったり、憎みあったりできる同等の友は、僕一人だったのに。……僕は死の誘惑に耐えきれなかった」
「……!?」
「でも、もう、
最初は傷口から滴るだけだった花びらは、ざあざあと風に舞うようにして、勇者の全身から散りゆき始めた。
最期の最後まで、勇者は、魔導王のことを気遣うようにしながら、
「災厄を倒さずに自決したなんて知れたら、【変貌】や
……ついに、存在のひとひらさえ残さず、逝った。
始祖竜【変貌】により『不変』という
【変貌】がその身を変じさせた剣により、竜の加護を脱ぎ捨てた。
しかも災厄を目の前に残して。……これが酷い裏切りでなく、なんだと言うのか。
あとには聖剣が残る。
そのすさまじい切れ味は、ただ落ちただけで、渇いた地面に……
そこに埋まっていた岩に、スッと静かに刺さるほどだった。
すべてが静寂に包まれていた。
誰もが、この戦いの終着がどうなるのか、予想さえできなかった。
……魔導王さえも。
この戦いの決着点を、見失っていた。
「ふざけんなっ……ふざけんな! どいつもこいつも、勝手に失われて! あたしは許してない! あたしは手放してない! 所有物どもが! どうして
魔導王は八つ当たりのように、そこらじゅうに魔術をぶっ放しまくった。
それは水を打ったような静けさに不意に喧騒を起こし、喧騒は一瞬遅れて叫喚を招いた。
人々は乱心する魔導王から逃れるように散っていく。それでも、まきこまれて死ぬ者は皆無ではなかった。
しばらく八つ当たりをしたあと、魔導王は疲労からではなく感情の昂りから息を荒らげて止まる。
そして、
「━━許すものか」
……先ほどの人為災厄化を経て第五災厄が生まれたと思い込んでいた俺は、これから起こることこそが、
「許すものか、許すものか! 許すものかよ! あたしが所有する! あたしが管理する! 勝手は許さない! あたしの許可なく離れるな! あたしの許可なく、なくなるな! 世界の全部はあたしのものだ! 誰も! 誰も! あたしの意に反することは許さない!」
……災厄というのは強い感情を持つ。
人には、他者の感情を察する能力があらかじめ備わっている。
だから俺は、第五災厄が誕生したその瞬間、災厄が
それは独占そのものが目的とは到底思えなかった。
ただの
強いて言えば、それは、寂しいという気持ちなのだろう。
その寂しさがなぜもたらされるのかと言えば━━
「これ以上失ってたまるか。これ以上、目の前で逃してたまるか!」
━━【執着】。
彼女の心は失われたものに囚われていた。
失われたことを認められない。認めたいと思っても受け入れられない。
周囲の者まで涙が出そうになるほどの寂しさを抱えているくせに、それを怒りでしか表現できない。
大事だとか愛しているだとかそういうことがどうしても言えなくって『私のもの』と言うのが、精一杯の愛情表現。
第五災厄【執着】は泣き叫ぶような産声を上げた。
彼女にはもう競い合うべき
孤独の荒野に生まれて、やり場のない力を渦巻かせるだけの、有害になれなかった災厄は、怒りで包装しないと外に出せない感情を吐き出し続けた。