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第10話 【憤怒】

 そもそも『災厄』とは、人である。


 ある日、生きるのがつらくなることぐらい、誰だってあるだろう。

 世界や社会を恨むことも、一度もないなんていう人は、そういないだろう。


 個々人の中にあるだけではなんの力もない小さな不満、怒り、悲しみ、絶望……

 そういったものがなんらかのきっかけで『一人』に集約されてしまった時、その『個人』は『災厄』になる。


 その特性上、『災厄』は決まって時代が極まった時に発生する。


 そうして恨みだの不満だの絶望だのは、一人の『もっとも強い感情を持つ者』の中に集まり、その感情に染め上げられ、世界を滅ぼす力と変わるのだ。


 千八百年前のこの時、俺にあった感情は【憤怒】だった。


 元凶たるモノがまったく責もとがもないかのように、無関係そうな顔をしている。

 あまつさえ被害者のようにさえふるまい、自分がなぜ怒られているのかもわからず━━あるいはわからないフリをして━━より上位の強者に、こちらが加害者であるかのように訴えて保身をはかる。


 責任を果たせ。


 責任も咎も負えないなら、人の人生を勝手に脚色して歪曲するんじゃねぇ!


 …………この怒りは、長い長い時間を経てもなお、胸の奥を燃えたぎらせるように鮮烈に蘇るものだった。


 黒い炎が心身を焦がした。けれどその炎は俺を傷つけず、むしろ俺自身の血肉となっていった。

 吹き出す熱気があたりを黒く焦がしていく。


 自分が燃えたぎる感情に呑まれていくのが、やけに気持ちよかった。

 腕をふるうだけですべて炭になるのが、たまらない全能感をもたらして━━


 ━━全能感は、俺の中にあった『自分は正しい怒りを抱いているのだ』という想いを、二度と覆らないほどに焼き固めた。


 第二災厄【憤怒】は、こうして完成した。


 ……それから始まった【躍動】との殺し合いについて、詳細に語ることはできない。


 怒りがすべてを飛ばしてた。

 理性もなく、思考もない。ただただ、燃えたぎる感情をぶつけているだけの攻撃。


 たぶん、俺は史上最弱の災厄だった。


 なにせ『見ただけでこちらを蝕む』と始祖竜に言わしめる存在である災厄と化しても、目の前の【躍動】を相手に手こずるぐらいなのだから。


 現代、目の前にいる【静謐】によれば、災厄が発生すると、始祖竜はえらく弱体化するらしい。


 つまり当時、弱体化した状態で、始祖竜【躍動】は俺の攻撃をいなし続けたのだ。


 だがそれは、時間を稼ぐだけのものでしかなかった。


 俺は視界にいる【躍動】をずっと追い続け、殺意のこもった攻撃を続けたし……

 そのせいで【躍動】は、かつて始祖竜【静謐】がとったように、『人に加護を与えて代わりに災厄を討伐させる』というような暇がなかった。


【躍動】の方に勝算があったようにも、思えなかった。


 俺たちの通ったあとは黒く、あるいは白く燃え尽きた。

 街も、建物も、人さえも炭になり、灰になった。


 始祖竜は人がやりすぎた時に人をいさめるバランサーでもあるようだが、そもそも、人が減りすぎると存在できないため、ある程度の数は確保したがる。


 現代視点で冷静にかえりみれば、もう存在に必要な数程度も人類が残っていないように思われるほど、俺たちの戦いはひどいひどい被害をもたらしていた。


 時間は【躍動】の有利には働かない。


 だから、彼女が時間を稼いだって意味なんかなく━━


 彼女がやっていたのは、怒り狂って目の前の怨敵を追うしかできない俺の、誘導、なのだった。



「おとうさん」



 待ち構えていたように放たれたその、たった一言の、消え入るような幼い声は、あれほど強固に固まっていた俺の怒りを、たったひと突きでボロボロに崩してしまった。


 全身を包む黒い炎が勢いを落とし、思考に混乱と空白が生まれるのを自覚した。


 時間にしてほんの一瞬でしかないだろう、怒りのはざま。


 そこにそっと、誰かの剣が差し込まれた。


 差し込まれた剣は粗末な青銅製で、けれど、よく使い込まれたものだった。


 あまりにも馴染み深いその刃が胸から生えているのを見て、俺は振り向かずとも、背後に誰がいるのかを察した。


「……ああ、そうか。無事に、生きていたのか」


 俺は言う。


 背後から俺を刺し貫いた人は、答えた。


「あなた、お目覚めになったのね」


 ……あまりに懐かしい、青春のにおいがした。


 あの日、田舎から出てきた俺の前に現れた、輝きを背負っていた彼女。


 一目惚れした、愛しい人。

 苦楽をともにした、愛する妻。


 ……剣が胸につかえて、振り返れないけれど。

 その声を間違えるはずが、ない。


 ちょっとだけ安心する。


 俺は怒りに呑まれて災厄となったが━━


 取り戻したいと願っていた妻と子を忘れてしまうほどには、狂っていなかったらしい。


 ……とはいえ、それも、最後の一線だけは守れたという程度で。

 狂騒が冷めて顧みれば、あたりにはもう、灰と炭しか、ない。


「全部、全部、壊してしまった。俺たちが暮らしたアパルトメントも、お前のレースを扱ってくれている店も、義父とうさんの墓さえ、炭にしてしまった。世話になった人だって、きっと、黒い煙にしてしまった」


「『いいのよ』なんて、被害に遭った人たちのことを思えば、言えないわ。あなたは許されないほど世界を壊してしまった。私がこうしてでも止めなければならないと、決意するぐらいに」


「……」


「あなたを殺そうとしたことは、謝らないわ。だってあなたにこのまま暴れ続けられると、この子の生きる場所がなくなってしまうもの」


「うん。ありがとう」


 俺たちは苦難を乗り越えて強く結びついていた。

 互い以上に大事なものはなかった。


 でも、大事なものができて━━


 そのために死ねるのは、こんなふうになってしまった俺なんかにはもったいないぐらい、いい結末、なのだった。


「やれやれだ。……まあ、僕が悪かったのだろうね、たぶん」


【躍動】の声がした。

 俺はもはや、その声に怒りをわき上がらせることはなかった。


 すでに目は覚めていたし……


【躍動】はもう、その存在感を希薄にして、消えていくところだったのだから。


「……人が災厄になるのに、僕らは人を絶滅させられない。それがなぜか、思い出さないかな?」


 人の感情というエネルギーがないと、始祖竜はその人格を維持できないから。


 ……彼女らは人に想われて実在する。


 だから災厄と成るのが人であることは承知しつつも、彼女らは人をある程度生かしておかないと存在できないから、人を滅ぼせない。


 そもそも、大自然をある程度操る能力は、人が大自然に殺されすぎないようにするためのもの。彼女らの本業は、人類と大自然との間に入って人を庇う盾なのだ。

 人間が自然を傷つけすぎない限りにおいて、始祖竜は人の庇護者、なのだ。


 ……とはいえ。


【躍動】はやっぱりものぐさ・・・・で、死にかけている時に、こんな細々とした説明をするはずもなかった。


 だから彼女はウィンクなんかして、こんなふうに、『災厄を生み出す人類を滅ぼさない理由』を語ったのだ。


「僕らはヒトを愛しているんだよ。……たぶん、子が親を愛するようにね」


 思い知らされたなあ、なんて言いながら。


 始祖竜【躍動】は、火の粉のようなものを散らして、世界から消えていった。


 子が親を、愛するように。


 ……それは、すごく、複雑な感情だ。


 俺は自分の両親を愛してはいないけれど、妻は父母を愛しているし、俺も、妻の父母のことは尊敬している。


 さんざん世界に迷惑をかけた俺を、息子がどう思うのかは、不安が尽きない。


 嫌うかもしれない。憎むかもしれない。

 あるいは、どうでもいいと、自分には関係ないと、そう思うかもしれない。


 でも、たしかに。

 彼は俺の子、なのだった。


 ……この関係は切っても切れない呪いみたいなもの、なのだろう。


 だから、さんざん世界に迷惑をかけて死にゆく俺は。


 ただの一言も遺さないのが、きっと、息子にできる最後にして最大のことなんだろうな、なんて思いながら━━



 ━━というあたりで、躍動の時代は終わりだ。


 当時のことを思い出すだに、顔を覆いたくなってくる。


 それは深い悔恨と、今さらゆえにいくらでも頭に浮かぶ、無数の『もっとやりようがあったんじゃないか』という、己自身からの突き上げと。

 やっぱり、羞恥と、罪悪感と。


 ……とてもじゃないが、一言で言い表せなくて、どんな顔をしていいのかもわからなくて。

 だから、顔を覆って、石のように固まるしかないのだ。


 ……だからこれは、愛が奇跡を起こさなかった話で間違いない。


 ただ、愛された者が、愛した者への責任を果たすべく、決意して、後悔して、それでようやく世界はギリギリ滅びだけはまぬがれたという、そんな話だ。


 妻の決意は、決して奇跡ではない。


 ようするに、これは、そういう話、なのだった。


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