当時のことを思い出すだに顔を覆いたくなるのは、テーブルを挟んで目の前に【静謐】だった人がいるからというだけが理由ではないだろう。
もはやどのぐらい前かも判然としない、大昔の話だ。
もう、色々と時効だろう━━そう思うのだけれど、どうにも【静謐】に語られて蘇った記憶は、今がまさにその時だというような臨場感をもって、当時の光景を俺の脳裏にまざまざと浮かび上がらせた。
農村の三男という、当時としては絶望的な立場に生まれた俺は、十二歳になった日に独り立ちするか長男の奴隷になるかを選ばされることになったのだ。
ここで言う『奴隷』というのは比喩表現でしかないのだが……
一生長男の言いなり、結婚も長男の言いなり、どれほど働いても収入は長男の総取り━━
━━持っている畑を耕そうが、新しい場所に畑を拓こうが、すべて長男のものであり、長男が許可しない限り俺個人の収入はなにも認められないという、現代ではちょっと考えられないほど長男の権力が強い時代だったので、三男はまさしく奴隷なのだった。
そしてここが一番大事なのだが、俺は長男と仲が悪かった。
出て行くという選択は家族の誰もが予感していただろうし、そこに反発して『うるせぇ! 奴隷になってやらぁ!』なんていう反抗期をこじらせた超展開も起こらず、俺は大人しく故郷を飛び出し、結果として二度と帰ることはなかった。
そうして俺は先に家を出た次男を頼り、彼が向かったという街を目指した。
結論から言うと、次男と出会うこともまた、一生なかったのである。
頼りにしていた次男は見つからず、生活のための金も尽きかけた。
冒険者稼業は想像していたような煌びやかさはなく、ただただ地味で、大変で、夢を見て上京した十二歳の子供の心を折るには充分だった。
絶望した。
絶望は腹の底から押しあがってくる重苦しい冷気だ。
それは股間を縮み上がらせて道の真ん中で俺を凍りつかせた。そうして俺は荷馬車に轢かれて気を失った。
目覚めると農村ではまずお目にかかれない石造りの立派な家の中におり、そこで俺を介抱してくれた女の子がちょうど俺の顔をのぞきこんでいるところだった。
一目惚れした。
いや、聞いてください。しかたないことなんです。
なにせ当時の俺は農村しか知らなかったんだ。
故郷の女の子は髪はボサボサ、そばかすだらけ、常に爪のあいだに土が挟まっていて、それからなんていうんだろう、立ち振る舞いに気品がなかったのだ。
つまるところ、髪はさらさらの金色、お肌は真っ白、よく手入れされたピンク色の爪の、青いお目目をぱっちり開いた、気品あふれるその同年代の少女は、俺の故郷にまずいないタイプで……
照明を背負うようにこちらをのぞきこむ彼女は、後光が差して見えたんだ。
そう、照明が天井にあることもまた、俺にとって衝撃的だったのだ。
魔石である。
農村ではまずお目にかかれないそれが、都会の家では日用品の一つとして普通に使われているのだった。
別世界、という表現をしてしまっても、あながち大げさじゃないぐらい、そこはなにもかもが俺の故郷とは違った。
「まあ、お目覚めになったのね」
一瞬、なにを言われているのかわからなかった。
『まあ、お目覚めになったのね』だ。
『いつまで寝てんだこの穀潰し! ほれ働け!』ではない。
言葉遣い一つとっても、故郷とはまったく違う。
次々襲いかかる衝撃に、俺はしばらく言葉を失った。
そうこうしているあいだに彼女は自己紹介をして、ようやく言葉を取り戻した俺も聞かれるまますべて正直に答えた。
するとどうだろう、『轢いたお詫び』ということで、俺はその子の親が経営する商家に住み込みで働かせてもらえることになったのだ。
天運が自分に向いていると思った。
【躍動】様のお導きに感謝します━━だなんて夜な夜な感謝の言葉を捧げたぐらいだ。
神は俺を愛しているに違いないと思い込んでしまうほど、俺の人生はとんとん拍子で進んでいったのだ。
俺はこのまま商家で出世して、
この時の俺の心配事はと言えば、奥方様を早くに亡くされた旦那様が、一人娘をことのほか溺愛しており、それを嫁に出すなんてとんでもない、という態度でいたこと、ぐらいだったろう。
ここから農村出身の俺が『娘さんを嫁にください』と言えるところまで持っていくのはかなりの苦労が予想された。
幸いにして『娘さん』本人が影に日向に俺を助けてくれたので、その苦労はつらいばかりではなく、力を合わせてなにかを成すたび、俺たちは愛する互いと幸せに生きる夢を思い描き、語り合った。
まあ、どうだろう。その夢は一部だけ叶ったとは、言えるだろうか。
ある日唐突に商家は乗っ取られて、旦那様とお嬢様、そしてその一派であるとされた俺たちは、追放された。
新しい商売を興そうとする旦那様を支えるべく、俺は冒険者となって生活費や開店資金を稼ぎ、そうして彼らに尽くしていくうち、お嬢様との結婚を認められることになったのだ。
ただし、商家として返り咲く前に旦那様は心労がたたって亡くなられ、旦那様についていた人たちも生活があるのでいつまでも落ち目の商人に尽くしていられないと離れていった。
二十歳になったころ、俺たちは旦那様の墓前で婚姻を交わした。
俺たちはだいたいすべてを失って、けれど、それだけに強く結びついた。
それはそれで幸せだったんだろうと思う。
少なくとも、主観的には……【静謐】のことをすっかり忘れていた俺にとっては、間違いなく、幸せだったんだ。