エルザ山脈。その麓にある小さな村酒場。
一人の少女の来店をきっかけに、それまでザワついていた客の半分が口を噤んだ。
恐らく魔法使いだろうその少女は、ローブの半分が裂かれ、露出した白い肌は鬱血し、ボロボロの状態だった。
「地獄帰りか……」
「だろうな。夢も大事だが、若さ故のノリって言うのか……可哀想に」
誰が言い始めたのか、パーティが全滅して、生き残った最後の一人が生還する事を『地獄帰り』と言うのだ。
少女……魔法使いのリリシーはエルザ山脈の麓のダンジョンで、初めてその地獄を経験したのだ。
白い霧のような髪は膠のように固まり、澄んだエメラルドグリーンの瞳も、今はただのビー玉のように光なく、置かれたグラスを写すだけだ。
客は皆、リリシーのあられもない姿を口にするが、意外にも野次が飛んだり、傷に塩を塗る様な真似をする者はいなかった。
冒険者とは人聞きの良いふうではあるが、仕事は歩合制な上に騙されることもある。
冒険者にならない人間というのは、町でも居場所や資産のある者達なのだ。
故に皆、自由になる歳が来るとギルドに溜まり、危険な日雇いに手を出すようになる。
特にリリシーのように若くて清楚な冒険者は引き抜くだけで賭け事が始まり、運良く強者のパーティに入れても男に口説かれ、関係がもつれ……まともに冒険者として労働できるパーティはそう多くないのだ。
エルザ山脈のダンジョンは上級クラスの冒険者ご用達の経験値の稼ぎ場だ。故にリリシーのいたパーティは、前記のようなちゃらんぽらんなパーティでは挑戦を企てられない。
つまり、リリシーは美しく魔法使いとしても聡明でまともな女……というのがこの場の客が持った印象なのだ。
そして『地獄帰り』。
特に中高年層の冒険者は皆、少なくとも一度はそれを目にした経験がある。
このボロボロになった姿でやっとの思いで。
深夜に少しでも人気の多い場所へ 。
年端もいかない少女が、そうした地獄のような体験の後、この酒場に辿り着いた。
……皆、分かっているから無粋な茶々は入れないのだ。
リリシーの座ったテーブル席を一瞥し、一人の老人が立ち上がって相席を申し出た。
リリシーは頷きもせず、だが突っぱねる訳でもなく、ゆっくりと対面席に座った老人を睨みつける。
「……お疲れなようだ。今日の寝床はあるのかい ? この酒場の上ねぇ、従業員の仮眠室だけど、今は空き部屋だから。今日はそこで休みなさい。
前のウェイトレスさんが残していった服もあるし 。古臭いけど……装備が整うまでのしのぎにはなると思うよ」
リリシーのクルミのように大きく丸い愛嬌のある目が、今や面影も無く黒く淀んでいる。
クマのせいで垂れた下瞼がぼんやりと老人を見つめ返す。
敵意は消えたようだ。
「ありが……ます……」
消え入るような声だが、礼を言ったのだと思われる。
そのリリシーの反応に……酒場にいた全員、少し胸をなで下ろしたようであった。