これまた広くてお洒落なリビングに圧倒されながらも無事に鞄を救い出し、連れてこられた地下駐車場。
部長の愛車だという真っ白で傷ひとつない車は、免許すら持っていない私が見ても高級そうな車で、少なくとも黄色ナンバーでないことだけは確かだった。
同じ会社なのに、役職が違うだけでこんなにも暮らしのスタイルが変わるものなのだろうか。
確かに部長は、稼ぎ以上の働きをしているに違いないけど。
「失礼します……」
埃ひとつ落ちていない車内を汚してしまわないよう、恐る恐る助手席に乗り込む。
続いて運転席に乗り込んだ部長は、シートベルトを締めながら私を見た。
「一応、なんとなくの場所は頭に入ってるんだが、近くなったらナビしてくれるとありがたい。それか、カーナビに入力しておいてくれるか?」
「はい」
「よし」
答えると同時に車体が滑らかに走り出した。私は緊張しながら、なんだか色々と高機能そうなナビにそっと触れる。
今までも、東雲部長が運転する車に乗ったことはあった。
けれどそれはレンタカーか社用車の二択であったし、今日はいつもとは違う時間帯にシチュエーション、それに、スーツではない、私服姿の部長。たったそれだけなのに、やけに心臓が落ち着かない。
背の高い建物ばかりに囲まれた景色から抜け出して、更にしばらく車を走らせていれば、風景は段々と見慣れた街に塗り替えられていく。
そろそろ家だなあと思ったのと同時、不意に隣から声を掛けられた。
「……ごめんな」
「え?」
突然の謝罪に弾かれたように顔を上げると、部長の顔は前に向けられたまま、視線だけがちらりと絡む。
「君の体調が優れなかったこと、本当なら上司の俺が気付くべきだった。すまない」
そのセリフに、反論の言葉はすぐに飛び出た。
「部長は悪くありません! 私が自己管理できてなかっただけで……」
「いや、部下の様子を気に掛けるのも俺の仕事だからな」
そう言って眉を下げた部長に、私は言葉を失ってしまった。
(どうして)
どうしてあんなに、怖がってしまったんだろう。
こんなに優しい人を。こんなに面倒見が良くて、誠実なこの人を。
理不尽に怒ったりするような人じゃないなんてことは、初めから分かっていたはずなのに。
「……」
東雲部長の一部だけを切り取って、勝手に怖がって、怯えて。彼のことを正面から見ようとしなかった自分が情けなくて俯く。
だけど後悔に染まった心の隅で、あたたかい明かりが灯った。
きちんと部下のことを大切にしてくれて、一人ひとりを見てくれる。そういう人が上司で本当に良かった。そう思って。
それから数分と経たないうちに車は減速した。顔を上げると、見慣れたアパートが闇の中に佇んでいる。
「あ……!」
目的地の到着を報せるナビゲーターの声が耳を通り過ぎていき、もたもたとシートベルトを外している間に東雲部長は外に出てしまった。
そして、私がベルトから解放されるのと同時に、助手席に回り込んだ部長の手によってドアが開かれる。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
からかい混じりに差し出された手。
けれどその仕草があまりにもしっくりきていて、恭しく首を垂れるその姿に一瞬、呆然としてしまった。
こんなにキザな振る舞いが似合うだなんて、イケメンって凄すぎる。
部長はポカンとする私の手を取り、もう一方の手にはいつの間にか私の荷物を持ってくれていた。
そして成り行きで二人手を繋いだまま、錆びついた階段を上る。
やがて部屋番号が記されたプレートの前に立ったところで、私はハッとして部長の前に回り込んだ。なんだかこのまま、部屋の中まで来てしまいそうな勢いだと思って。
「こ、ここまでで大丈夫なので!」
たとえ玄関先だとしても見せられるような家じゃないのだ。部長の家を見た後では尚更。
「そうか?」
やたらと冷や汗をかく私に東雲部長はきょとりと首を傾げた後で、それなら、と鞄を渡してくれる。私はほっと息をついて、部長を見上げた。
「あの、昨晩からずっと面倒を見ていただき、本当にありがとうございました。部長も残りの時間はゆっくり休んでくださいね。……休めなかった原因のくせに何をって感じですけど」
あはは。自嘲するように笑うと、アーモンド形の瞳が柔和に微笑む。
そして、ふいに部長が大きな手のひらを持ち上げたかと思うと、その影は優しく私の頭に乗った。
ぽんぽん、と軽く叩くように撫でられる。呆然とする私を余所に、部長の唇は淡く綻んで――
「君は俺の大切で大事な可愛い部下だからな。元気になって良かった」
そうして差し出された言葉に、とろけるような笑みに。
嬉しいはずなのに、胸の奥がもやりと疼いて落ち着かなくなった。
「まあ、今は解熱剤が効いてるだけで、切れたらまた上がる可能性もあるし油断はするなよ。休み明けも、少しでも具合が悪ければ休むように」
「はい……」
「じゃ、おやすみ」
離れ際にくしゃりと私の髪を乱していった部長が、背中を向けて来た道を戻って行く。
その後ろ姿を、私は見えなくなるまでぼんやりと追っていた。