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第5話




「下がったとはいえ、まだ微熱だな……」

 私が渡した体温計に目を落とし、東雲部長が渋い顔になる。

 私は部長の手作りだというたまご粥を蓮華で掬いながら、部長の言葉に目線だけで応えた。

 昨晩は酷い熱だった、と聞かされた。

 意識が戻らず、しかし緊急で病院に運び込むほどでも無さそうだったので、ここ……薄々気が付いてはいたが、東雲部長のご自宅まで連れてきてくれたのだ、とも。

 ふうふうと冷ましたお粥を口に含みながら、体温計の表示を横から確認する。そして、ごくりと飲み込んでから口を開いた。

「そのくらい平気ですよ」

 示す温度は37.3度。本当に微熱だ。けれど部長は険しい表情のまま首を振った。

「朝のうちにこの体温じゃ、昼頃にまた上がるぞ。今日はここで休んでいきなさい。夜になって調子がよさそうなら、車で送ってあげるから」

「え!? いやさすがにそこまでは……! あの、これをいただいたら帰りますんで!」

 部長の申し出に喉を詰まらせそうになりながら慌てて固辞すると、少しだけムッとしたような視線が投げられる。

「……さっき、頼って欲しいと言ったばかりなんだが」

「ええ……」

 確かに言われたけども。

 だけど今なら体もそこまで重たくないし、自力で帰るなら絶対に今なのだ。ここがどこなのか知らないけど、最悪はタクシーを駆使すればいいのだし。

「でも、さすがにそこまで甘えられません」

 お気持ちは嬉しいですけど。そう断ると、部長は暫く黙った後で、ぴっと指を二本立てた。

「なら、二択だ」

「二択?」

「ここで大人しく休むか、俺に家まで押しかけられて、君の自宅で看病されるか。どっちがいい? 他の選択肢は認めない」

「どっ……」

 っちがいいと言われても! どちらも部長に迷惑がかかるやつ!

 一体全体、部長に何の得があってそんな……戸惑うものの、こちらを見つめる美しい瞳は揺らがない。

 私の家は安さ重視のボロアパート。部屋も綺麗ではないし、そんなところに部長を呼ぶ? いや、無理だ。私が耐えられない……!

 ろくに片付いていない六畳一間に目の前の麗人が座っている姿を想像して、そのあまりのミスマッチさに身震いした。

「どうする?」

「う……」

「俺はどちらでも」

 余裕綽綽な笑みが恨めしい。だけどもう、答えは一つしかなかった。

「こ、ここに居させてください……」

 小さな声で項垂れた時の、部長の嬉しそうな顔といったら。

 何がそんなに嬉しいんですか。そう詰ってやりたかったが出来るはずもなく、私は部長から目を逸らして唇を尖らせた。


 部長の言葉は正しく、時計の短針が進むにつれて熱は上がっていった。

「辛いな……」

 苦しさに喘ぐ私に、部長はずっと優しい。

 さらりと渇いた手のひらが、私を侵す熱を吸い取るようにそっと頬を撫でる。そのひんやりとした気持ちよさについ吐息を漏らすと、部長は手際よく氷枕を取り換えてくれた。

 それだけじゃない。薬や水、それから、食欲の失せてしまった私に、せめてもと果物まですり下ろしてくれる丁寧さだ。本当に至れり尽くせりで、申し訳ないとは思いながらこの体では甘えることしか出来なくて。

「ずっとここに居るからな」

 高熱で朦朧とする意識の中、けれど部長の声だけは鮮明に聴こえていた。私を励ます穏やかな声や、頬や頭を撫でる、慈愛に満ちた手。

 まるで幼子を看病するような仕草の数々が、しかし頼もしく、嬉しくて。熱で弱った心に、どうしようもなく沁みた。

 多分、思考もまともでは無かったのだろう。部長の存在にすっかり安心しきった私はそのまま眠りに落ち、やがて日が暮れて解熱剤が効いた頃。

 すっきりと目覚めた私は。

(穴があったら入りたい。いや、いっそ誰か私を埋めてくれ……!)

 遅れてやってきた後悔と羞恥に、しっかりばっちり死にかけていた。

 こちらを見つめる優しい表情が頭から離れない。それは仕事中じゃ絶対に見ることができない表情だった。

 そのせいで心臓は、ドキドキバクバクとひっきりなしに騒ぎ続けている。

 いくら熱で魘されていたとはいえ、さすがに甘えすぎた。

 家族でも恋人でも、ましてや友人ですら無い人に、付きっ切りで看病させてしまうなんて。

(部下として、というか社会人として……いや、大人としてどうなの!?)

 どうもこうもない。完全にアウトである。

 叫び出したい衝動に駆られて、人様のベッドの上で頭を抱えてのたうち回る。ひとしきり暴れた後で、ごろりと寝返りを打って高い天井を見上げた。

(でも)

 優しい人だ。本当に。

 だってどう足掻いても、たとえ部長が私を部下として気に入ってくれていたとしても、私が女であることに変わりは無い。

 彼にしてみればいつ害となるか分からない人間だ。だというのに、ここまで面倒を見てくれるなんて。

 勝手に苦手意識ばかり持っていたけれど、そんなに怖い人じゃないのかもしれない。それどころか、すごく――、

「調子はどうだ?」

 思考に耽っていたら、耳元で声が聞こえてびっくりする。

 視線を上げるといつの間にか傍らに東雲部長が立っていて、心配そうに私を見つめていた。

「あ、はい! もうすっかり……。本当に、色々とありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げ、ベッドから飛び降りて部長の前に立つ。

 いきなり動いた私を制そうとしたのか、部長の手が中途半端な位置に浮いていたけれど、元気を取り戻した私の方が早かった。

「本当なら、シーツもお布団も、クリーニングに出させていただきたいところなんですけど……」

 ちらり。極上の手触りだった純白のシーツを見下ろす。

 出来ることなら剥ぎ取ってでも持って帰り、クリーニング店に駆け込みたいところである。しかしそんな考えはすぐに苦笑する声に遮られた。

「いいから。そんなこと気にしなくて」

「……せめて、薬と食事代だけでも」

「君と俺の収入がどれだけ違うと思ってるんだ? 俺の好意を無下にする気か」

 そう言われてしまうと何も言い返せない。

 私は食い下がろうとした言葉を飲み込んで、手櫛で髪を整えながら優しい琥珀色に視線を重ねた。

「じゃあ、お言葉に甘えて……」

「ん」

「えっと、何から何までお世話になりました。あの、見ての通りすっかり回復したので帰ります!」

 言ってから、ええと、と周りを見渡す。

「それで、私の鞄って……」

 視線を巡らせても鞄だけが見つからず、尋ねれば部長は浮かない顔で「ああ……」と呟いた。

 それから、何かを逡巡するように視線を落とした後で、どこか請うような視線をこちらへと向けてくる。喩えるなら、散歩の終わりが近づいて悲し気な顔をする仔犬のような……。

(って、私は何を)

 ぶんぶんととんでもない妄想を振り払うように頭を振る。部長はそんな私に不思議そうな顔をしてから、その薄い唇を開いた。

「別にもう一泊して行ったっていいんだぞ」

「え」

「寝心地だって悪くなかっただろう。それなりに快適な部屋だと自負しているんだが」

 それはもう、その通りだったけれど。

 ……いやでも、そういう問題じゃない。嫌か? なんて小首を傾げる部長をちょっと可愛いとか思ってはいけない。何よりこのまま二人きりで過ごすのは、色んな意味で私の心臓がもたない。

「ありがたいお言葉ですが、私もお風呂とか入りたいですし! それに部下が居たんじゃゆっくり休めないでしょう。せっかくの休日なのに」

「そんなことは……。でも、風呂はそうだな、俺の服じゃ合わないだろうし……」

 私の姿を頭のてっぺんからつま先まで眺めながら何事かを呟いた後で、東雲部長はゴホンと咳払いをした。

「すまない、我儘を言ったな。君の鞄はリビングに置いてあるんだ。送っていくから、ゆっくり支度しておいで」

 そう微笑んだ部長に、送ってもらわなくてもと言いかけて、だけど口にする前に微笑んだまま鋭い視線を寄越される。

 有無を言わせないその圧に「よ、よろしくお願いします」と冷や汗を流しながら、私はベッドルームから出るのだった。






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