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第4話




「……仕事!」

 カッ、と目を開く。

 いつの間にか横になっていたらしい身体を勢いよく起こして、けれど覚醒した思考はそこでまたフリーズしてしまった。

「え……」

 どこだ、ここ。

 柔らかな日差しに包まれる室内を、ぐるりと見回す。

 きらきらと陽光を透かす淡いグリーンのカーテンに、ナチュラルなテイストで統一された家具たち。……残念ながら、全く見覚えが無かった。一体何が起きているのだろう。

 太ももの上にはマシュマロのように軽い羽毛布団。現在地は見知らぬベッドの上で、私の体を支えるそれは自分の家のものより何倍もふかふかだった。

 無駄なものがひとつも無い、綺麗な部屋。けれどモデルルームやホテルの一室というには、生活感のありすぎる。

(え、ほんとにどこ?)

 夢?

 どうすることも出来ず広いベッドの上で固まっていると、不意にドアノブがガチャリと回って、大きく肩が跳ねる。

(誰か来た……!)

 隠れるべきか、立ち上がるべきか。もういっそ、寝たふりでもしようか。混乱した頭でぐるぐると考えているうちにベージュ色の扉が開き――現れた姿に絶句した。

「お、目が覚めたか」

 からりと爽やかな声。

 そこに立っていたのは、黒いシャツにジョガーパンツというラフさでもその格好良さを失わない、東雲部長その人だった。

 もはや驚きすぎて“部長”と呼ぶ声すら出てこない。

 そんな私を気にも留めずに歩いてくると、部長は手に持っていたペットボトルや体温計をサイドテーブルに置いて、ベッドの端に腰をかけた。

 呆然としたまま一言も発せない私を余所にぎしりとスプリングを軋ませて、シーツの上に手を突いた部長が身を寄せてくる。

 あっという間に近くなった距離に固まると、長い指先が私の首元に触れた。

「……っ」

 私は咄嗟に目を閉じて、その唐突な触れ合いをやり過ごそうと頬の内側を噛む。小さく震えて、じっと息を詰めながら。

 きっと数秒にも満たなかったのだろう。けれど私にとっては永遠とも思えるような時間の後で、部長の指先はあっさりと離れていき、続いて聴こえてきたのは安堵の声だった。

「……うん。熱は下がったみたいだな。額の、もう取っていいぞ」

「え……」

 言われるがまま額に手を持っていくと、皮膚ではない感触が触れる。

 縁を辿りながら端っこまで指を滑らせ、摘まんで引っ張るとそれは冷却シートだった。冷たさをほとんど失った青いジェルが、ペロンと目の前で揺れる。

「喉も渇いたろ。これ、好きな時に飲みなさい。あとは、体温も念のため測っとこうな」

 現状を飲み込めないまま、シートの粘着剤を合わせるように折りたたんでいれば、体温計がぽすりとお腹のあたりに飛び込んできた。

 そして、ぽけっとする私に、部長はどこか含みのある笑みで流し目を向けてくる。

 その、意地悪そうな、妖しげな視線から、目が逸らせなくなって。

「それで、何か俺に言うことは?」

 弧を描いた唇から問われた言葉に一瞬で現実に引き戻されて、私は勢いよく頭を下げた。

「ご、ご迷惑をお掛けしてしまいすみません!! すぐ! すぐ出ます……!」

 そう言って、掛け布団を蹴とばす勢いで退けてベッドから飛び降りようとする。

 しかし、そんな私の腕を温かい手のひらが掴んで引き留めた。

「まあ待て、落ち着け。まだ病み上がりなんだから。ああもう、元気に蹴りとばして……」

 部長が苦笑して、乱れた掛け布団を持ち上げる。

「ほら」

 それから柔らかく微笑まれて、中に戻るよう促された。でも。

「……え、っと」

「……」

 さすがに困って見上げるけれど、部長は微笑んだまま微動だにしてくれない。

 しばらくの無言の攻防の末、折れたのは私だった。何が何だか。混乱するまま、足を元の位置に戻す。そうすればすぐに布団が優しく掛けなおされて、部長がぽんぽんと布団越しに私を撫でた。優しく、まるであやすように。

「ごめんな。目が覚めたら上司が居て、驚いたろ」

「いえ、そんな……」

 こともあるけど。

 でも部長に謝ってもらうようなことじゃない。弱々しく首を振れば、部長は微かに眉尻を下げた。

「ただ、俺は迷惑をかけられたなんて思ってないし、謝ってほしかったわけでもない。……分かるか?」

 こちらを真っすぐに覗き込むふたつの瞳が、光を溶かし込んで飴色に輝く。

 どこか甘さを感じるその眼差しにどうすればいいのか分からなくなって、心の柔いところを擽るような視線から逃れるように私は俯いた。

「……あの、私、熱を出してしまったのに気付けなくて、」

「こら」

 もにゅりと動かした唇に、部長の長い指先が触れる。

「謝罪は要らないって言ったろ」

「ぁ……」

「折角なら礼のひとつでも言ってくれた方が、俺は嬉しいんだが」

 叱るようだった眦が優しくゆるんで、からかうような笑みが浮かんだ。

 その眩しい微笑みに奪われてしまった視線を、我に返って二度、三度。泳がせて、いつの間にか解放されていた唇を薄く開く。

「ありがとう、ございます」

「どういたしまして」

 間髪入れずにしなる琥珀色。その満足げな表情に、自分はいったい何に対してお礼を述べているのだろうと思った。

 勿論、感謝していないとかではなく。だけど、ありがとうございますなんて素直に言えるほど、私はまだこの状況を受け入れきれてはいない。

「……あの、それでも、熱を出してしまったこと、看病くださったこと、お疲れでしたでしょうに、すみません」

 だからやっぱり謝ってしまった。受け入れられていないどころか全く記憶も無いけれど、きっと意識を失った私を運んで一晩中面倒を見てくれていたのであろう上司に――いや、上司じゃなかったとしても謝らないままでいるのは、自分が許せなくて。

 東雲部長は懲りずに謝る私に少し呆れた顔をしたけれど、やがて「ま、そうだな」と明るい声を出した。

「看病云々はともかく、具合が悪いのに仕事を続けていた点は反省してもらわないとな」

「う……ごめんなさい」

 具合が悪い自覚もあんまり無かったんです。……なんて言ったら、さすがに怒られるだろうか。

「なあ、どうして昨日、残ってたんだ?」

「え?」

 しゅんと項垂れていたところに真面目に問われて顔を上げると、揶揄いのひとつもない、やけに真剣な眼差しに射抜かれてどきりとした。

「昨晩までに仕上げなければならないような急ぎの仕事は無かったと記憶していたから、気になってな」

「あ、いえ……。昨日は朝から……その、ミスが続いてしまっていたので」

 言いながら、胸がズキズキと痛む。つい昨日の出来事とはいえ、できれば思い出したくない過去だ。

「それで、やろうと思ってたことが全然終わらなくて、せめてそれだけは終わらせてから帰ろうと……した次第です……」

 話せば話すほど理屈の通ってない理由で、声が尻すぼみになってしまった。

 部長の言う通り、急ぎの仕事は無かった。

 だけど、私が終わらせないと次の人が作業を進められないような書類がいくつかあって、せめてそれだけでも片づけておきたかったのだ。

 部長はそんな私の言い訳をしばらく静かに聞いてくれていて、私が話し終わったところで、なるほどと呟いて眉を下げた。

「君のそういう真面目で健気なところも好きだけどな。たまには俺のことも頼って欲しい」

「え」

「……って、上司に言われたところでそう簡単にはいかないか」

 ふっとどこか寂しそうに微笑った部長が、さて、と立ち上がる。

「夕べから何も食べてないから腹減ったろ。少し待ってなさい」

 唐突に落とされた爆弾発言。けれど、間抜けな顔で呆気にとられる私を置いて、何事も無かったかのように部長は部屋を出て行ってしまうから。

(い、今、好きって言った……?)

 当然、部下として、ってことだろうけど。

 でもまさか、衒いも無くそんなことを言われるだなんて思っても見なくて、じわじわと頬の温度が上がっていく。

「し、心臓に悪い……」

 いつもよりも近い距離も、やたらと柔らかい雰囲気も。

 その何もかもが慣れなくて、ぐう、と言葉にならないうめき声を上げながら、私はふかふかのベッドに倒れこんだ。





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