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第3話





 静まり返った室内に、パチパチとキーボードを叩く音だけが響く。執務室に一人きりなんていつぶりだろう。そうぼんやりと思いながら、指先を無心で動かしていた。

 あの後、横山くんだけでなく、井上さんに松下さん、戸田さんまでもが手伝いを申し出てくれた。皆、本当にいい人だ。

 だけどこれは私の問題。だから丁寧にお断りさせていただいた。社内で一番最後になることは無いだろうし、キリがついたら帰るからとそう説得して。

 皆、納得はしていなさそうな顔だったけれど、頭を下げる私に免じて最後は折れてくれた。無理は絶対にしないことと、普段よりいくらか厳しい顔で私に言い含めて。

 随分と心配をかけてしまった。今度、お詫びのお菓子でも差し入れよう。そう予定を立てながら、エンターキーを押したとき。

「……?」

 不意に視界がぐにゃりと歪んで、咄嗟に眉根を寄せた。

 一度閉じた瞼を、ゆっくりと持ち上げる。広がった景色はいつも通りで、気のせいかと首を傾げながらまた指を動かした。

 ――この時、自分の異変に気付いていれば。

 いつもより体が重たいだとか、熱っぽいのに寒気を感じているだとか、突然の眩暈、とか。

 朝から感じていた違和感や、あちこちに散りばめられた異変。それにきちんと気付いて、仕事を切り上げていれば、きっとあんな事にはならなかったのに。






「――ぃ……おい……! おい、君!」

 唐突に、霧がかった思考が晴れる。

(この声……)

 聞こえてきた声の主にはすぐに思い至り、いつの間にか沈んでいた頭を持ち上げながら横を向くと、視界の全てが端整な顔で埋め尽くされた。

「ぶ、部長!?」

「おっと」

 間一髪。驚くまま椅子から転げ落ちそうになり、けれど大きく傾いだ椅子は、東雲部長の手のひらが支えてくれた。

 ドキドキと忙しない心臓を宥めながら、改めて二つの琥珀を見つめる。その瞳はどこか心配そうな、私を叱るような色を帯びていて、部長の眉間に皺が刻まれていくのを、ただぼんやりと眺めていた。

「まだ残ってたのか? もう遅いぞ」

「あ、えっと……すみません。今日は少し……」

 仕事が進まなかったので。そう素直に口にするのは辛くて、視線を落とし口ごもる。

 それから、気まずさに負けて視線を逸らした先、飛び込んできた壁掛け時計の時刻にぎょっとした。私の記憶より、一時間近くも時間が進んでいたからだ。

「……随分とぼんやりしていたようだが、平気か?」

 唖然とする私に、部長がそう尋ねる。

 確かにここ数十分の記憶が皆無だった。どれだけ手繰り寄せても、脳裏に浮かぶのは空白ばかりだ。

 ますます情けないところを見せてしまったことに落ち込みながら手元に散らばる資料を見つめるけれど、やっぱり何も思い出せそうになかった。

「……部長は、」

 どうしてここに?

 話題転換も兼ねて問おうとしたものの、騒がしかった心臓が落ち着いてくれば、一日中感じていた気怠さが、今度は今日一番の重さで襲ってきて呂律が上手く回らなくなる。

 そんな私に、東雲部長は困った子を見るような表情になった。

「今日は午後から外出で、戻りは遅くなると……一応、出る前にも言ったぞ」

「あ……ごめんなさい………」

 言われてみれば、午後はずっと居なかったような気もする。

 そんなことも把握できてないなんて。……駄目だ。喋れば喋るほどボロが出る。

 つい泣きたい気持ちになって俯いた私に、東雲部長は「怒ってるわけじゃ無い」と安心させるように声を掛けてくれた。

「仕事はまだ終わってないのか? 俺も手伝うよ」

 そして、そう言った部長がジャケットを脱ぎながら、隣の椅子に座ろうと背もたれを引いたから。

「いえ……!」

 疲れて戻ってきた部長にそんなことさせられない。そう、慌てて勢いよく立ち上がったのが、恐らく良くなかった。

「……っ、」

 ぐら、とひと際強く脳が揺れ、視界が眩んで吐き気の渦に飲み込まれる。

 一瞬だけかと思ったそれは長く続き、私はぎゅっと固く目を瞑りながら机にしがみついて、崩れ落ちてしまいそうな体を必死で支えた。

「おい、どうした? 佐藤?」

 どこか焦ったような東雲部長の声も、耳鳴りが被さって段々と聞こえなくなっていく。

 自分の内から漏れる熱い呼気が苦しくて、暗闇の中でもぐるぐると回る視界が、気持ち悪くて。

(ああ、また迷惑かけちゃう――)

 それだけは避けたい。だけど。

 這い寄る闇には逆らえなくて、私は身を委ねるように意識を手放した。





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