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第2話




「佐藤、少しいいか?」

 ジリジリとした日差しに焼かれ、通勤するだけで汗ばむ今日この頃。

 急激な気温の変化のせいか朝から体が怠く、ついため息が洩れたと同時に声を掛けられて、私はびくりと肩を跳ねさせた。

「すまない、驚かせたか」

 後ろを見上げると、東雲部長が申し訳なさそうに眉を下げている。「いえ!」と答えて立ち上がろうとした私を、部長は手で制した。

「そのままでいい。君がさっき俺にメールしてくれた資料で、一つ確認したいことがあってな。開けるか?」

 そう言った部長が片手をデスクに突いて、モニターを覗き込むために僅かに身を屈める。

 ぐっと近づいた距離と間近に感じる体温に心臓がひっくり返りそうになりながら、私は急いでファイルを開いた。

「ひ、開きました」

「ありがとう。この表、ここなんだけどな……数字、間違ってないか?」

「え」

 部長の言葉に合わせてスクロールしていた指が止まる。

 呆然とする私に気付かず、部長は続けた。

「軽く確認しただけだが、恐らく参照する範囲を誤ってると思うから、修正しといてもらえるか」

 部長の声は決して咎めるようなものではない。

 けれど一瞬で血の気が引いて、ぐわんと揺れた脳みそが激しい眩暈を訴えた。

「……佐藤?」

「! す、すみません!」

 そっと呼びかけられて、慌てて謝った声はひっくり返ってしまう。

 新人でもしないような、あり得ないミスだった。

 部長に送る前に最終チェックはしたつもりだったけれど、そんなことは口が裂けても言えないほど酷い失敗で、呻きそうになるのをどうにか堪える。

「すぐに直します。本当にすみません」

 言いながら血の気の引いた指先を必死に動かすと、きっと顔色も悪かったのだろう。下唇を噛みしめながら画面を凝視する私に、部長が気遣わし気に唇を開いた。

「急ぎじゃないから、直しはいつでもいい」

「はい」

「……このくらいのミス、誰にでもあることだ。あんまり気に病むなよ」

 普段、仕事中にはあまり聞かないような優しい声だった。けれどそれが、余計に辛い。仕事に妥協を許さない彼に、気を遣わせてしまったことが。

「……はい、すみません」

 気に病むなと言われたばかりなのに謝る私に、部長が黙る。何か言葉を選んでいるような間だった。

「よろしくな」

 だけど結局、頑なに部長を見ようとしない私に諦めたのだろう。部長は柔らかくそれだけを告げると、私の側を離れていったのだった。



 それからはもう、散々だった。

 修正はすぐに終わらせた。だけどすっかり集中が切れてしまって、やらなきゃいけない仕事は山ほどあるのに、全然進まなくて。

 焦っているうちに時間はどんどん溶けていき、気づくと定時を迎えていた。課業終了を報せるチャイムが、執務室内の空気をにわかに緩ませる。

 N.Dreamでは残業ゼロを基本方針に掲げていて、特に人事部である私たちは、なるべく方針を遵守するよう東雲部長から言い含められていた。

 部長の言いつけを破りたくはない。でも……。

「終わった〜」

 向かい側から聞こえてきた横山くんの声にハッとする。

 いつの間にか手が止まっていたようだ。なんだか靄がかかったみたいに頭が重たくて、私はぎゅっと目を閉じて頭を振った。

「さっちゃん」

「っ、あ、ごめん、何?」

 呼ばれて顔を上げると、パソコンの電源を落とさずこちらを覗き込んでくる瞳とかち合う。

「なんで謝るの。さっちゃんはまだ帰れなさそ?」

「うん、あと少しだけやっていこうかな」

「珍しい。手伝うよ」

「え! ううん、私の仕事だから! 少しだけだし大丈夫。ありがとう」

 当たり前のように画面に向かい出した横山くんを、慌てて引き留める。

 私の問題で進まなかった仕事を、まさか手伝わせるわけにはいかない。

 仕事を手伝いたい横山くんと、手伝わせたくない私。相容れない二人の押し問答はしばらく続いて、だけど折れてくれたのは横山くんだった。

 私の意思が固いと見ると、渋い顔をしながらもため息をひとつ吐き、帰り支度を始めてくれる。

「さっちゃんて変なところで頑固だよね」

「そ、そうかな。あはは」

「すーぐ笑って誤魔化すし」

 じとりとした目で見られて萎縮する。横山くん、はっきり言うなあ。

「本当に辛いときは絶対に頼ること」

「……うん」

「約束だからね?」

 わかった? と迫られてぶんぶん頷けば、鋭かった瞳が満足そうに細まった。

「じゃ、あんまり遅くならないようにね!」

 何かあったら戻るから連絡して! そうどこまでも優しい彼を見送ってから振っていた手を下ろし、倒れこむように席に座る。

「……っ、ふぅ……」

 急に座り込んだからか視界が軽く眩んで、落ち着かせるように細く息を吐いた。

(本当に、どうしちゃったんだろう)

 これが自分だなんて信じたくないほど、手際の悪い一日だった。

 こんなんじゃ、東雲部長に見捨てられてしまう。そう思うとゾッと鳥肌が立って腕を摩る。

 仕事のできない人間だと判を押されて異動になるなんて、色仕掛けをして飛ばされた子たちより惨めだ。それだけは、絶対に避けたかった。

「しっかりしなきゃ……」

 ぺちんと頬を叩く。

 だけどやっぱり、頭はすっきりしなかった。






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