東雲聖は女嫌いである。――それは、彼に近しい者の間では共通の認識だった。
普段は役職持ちとは思えないほど気さくで明るく笑顔の多い彼が、時折別人のように冷たくなる。それが理由で巷では二重人格だと囁かれているようだが、そうではないことを私は知っている。
だって、彼が冷たい態度を取る相手は女性だけだから。
けれど部長の機嫌を損ねた女性は漏れなく彼の側に居られなくなってしまうから、彼が女性に限り「そう」であることを、その女性本人も、周りも、結びついていないのだ。
春。私が人事部に配属されたのと時を同じくして、東雲部長も人事部長に任命されたという。
『東雲聖だ、よろしくな。困ったことがあれば気兼ねなく相談してくれ』
柔らかい日差しを背に受けて、優しく微笑んでくれた部長の表情を今でも鮮明に覚えている。
優しそうな上司に、その頃はまだたくさんいた同性の同僚。
初めてのことばかりで不安も多いけれど、どうにかやっていけそうだ。なんて、そうほっとしていたのだ。
東雲部長の存在が、部内の女性陣を浮足立たせていたことは分かっていた。
私は目の前の仕事を覚えることに精いっぱいでそれどころでは無かったけれど、何せあの美貌に、あの若さだ。周りが放っておくはずがない。
最初にアタックしにいったのは、誰だったか。確か他部署の男性からも人気を集める、すごく美人な女性だった気がする。
元々分かりやすい人だった。
部長の前でだけ声色が変わるし、どうにかして部長との接点を持とうと、頑張っていたから。
だけどそのアピールの数々が部長に全く響いていないことも皆知っていて、だから他の女性も、警戒はしながら彼女の行動を強くは止めなかった。
私に仕事を教えてくれるときは人の好い温和な先輩社員然とした彼女たちが、部長が絡んだ瞬間に水面下で火花を散らし始める。そんな様子を、モテるってすごいなあ、なんて呑気に感心していたある日のこと。
いい加減痺れを切らしたのか、焦れたのか。
定時間際、部長承認が必要な書類を携えて東雲部長の元へと駆け寄ったその人は、ついに行動に出た。
今思うと確かに、その日はいつも以上にキラキラと輝いていた気がする。
普段よりほんのり濃いメイクに、整えたばかりのジェルネイル。胸元を強調するようなブラウスと、膝丈でふんわり揺れるスカート。甘く香る香水。
私から見ればとっても素敵な、可愛らしい女の子だった。街中ですれ違ったら、つい振り返ってしまうような。
そんな彼女が淡く色づいた指先を東雲部長の腕に絡ませて、艶やかな声で誘うのを、偶然近くで作業をしていた私は目撃してしまったのだ。
「よかったら今夜、二人で飲みませんか……? いいお店を見つけたんです。東雲さんにぴったりの」
とろけるように甘い囁きだった。女の私でも、どきりとしてしまうくらいの。
だけど正直なところ、よくいったな、というのが素直な感想でもあった。
だって一目瞭然だった。恋愛の駆け引きに疎い私にも伝わるほど、彼女たちのアピールはこれっぽっちも東雲部長に響いていなかった。
私ならとっくに心が折れてる。男の人に自らアピールなんてしたこともないし、する予定も技量も無いから、想像しか出来ないけど。
だからその時は素直にすごいなと思ったし、ここまで熱心に誘われたら、さすがに部長も少しくらい揺らいだりするのかな? なんて思ったりもした。
そうじゃなくても、普段は明るくて優しい部長だ。彼女からのあからさまなお誘いを断るにしても「悪いな。今日は用事があるんだ」なんて少し困ったように、でもできるだけ彼女を傷つけないように断るんだろうなあと勝手に決めつけていた。
きっと、誘った張本人である彼女もそう思っていたことだろう。
しかし。
「それは今ここでする話だったか? 悪いが俺は、仕事の最中に私用を持ち込もうとする、君のような輩が一番嫌いなんだ」
絶対零度の眼差しで彼女を射抜きながら、吐き捨てるようにそう言った彼の姿を、誰が想像できただろう。
言われた本人だけでなく、部長以外の誰もが凍りつくような空気に固まる中、部長は彼女の手から書類を抜き取って押印すると、それをまた彼女に戻し、もう彼女を見ることは無かった。
とはいえ、今まで散々相手にされなくてもめげなかった女性だ。それからも諦めず東雲部長にアタックし続けていたけれど、ある日突然辞令が出た。
人事部とは縁もゆかりもない、本社ですらない支社への転勤。
明らかに不自然かつ唐突な異動だったが誰が指摘することも無く――それからだ。部長にほんの少しでも好意を見せた女性が、容赦なく飛ばされるようになったのは。
いくら人事部長といえど、そうぽんぽんと人を飛ばせるものなのだろうか。不思議に思っている間にも一人、また一人と居なくなり、気が付いた時にはもう、女性社員は私だけになっていた。
いや、そもそも、どう見ても故意的な人事発令が頻発しているのに、自分なら行ける! と日和らずに当たって砕け散っていく同僚たちにも脱帽だったけれど。
何も、東雲部長は女性に対して出会い頭から冷たいわけではない。
仕事中に性差で差別されるなんてことは当然無いし、なんなら基本的には優しくて頼りになる、最高の上司なのだ。
だから部長に惹かれる女の子は後を絶たないし、多少冷たい一面を突きつけられたとしても、それすら好材料になってしまうようで、評判はいつだって右肩上がりだった。
つまり、恋は盲目。
かなり辛辣な対応を受けていた女性社員が、クールなところも素敵♡ なんて目にハートマークを浮かべていた時は、流石に少し引いてしまったけど。
そんなわけで、東雲部長に面と向かって事実確認したわけでは無いものの、“東雲部長は女嫌い”というのが私の中の常識だった。きっと間違っていないだろう、とも思っている。
だって飲みに誘ってくる相手が男性だったら、部長は絶対に嫌な顔をしない。
彼の態度が顕著に変わるのは相手が女性の時だけ。ずっと彼と同じ部署で仕事をしている私にとって、それは自明の理だった。
だから私は、ずっと怯えている。
(むしろ、どうして部長は私を飛ばさないんだろう)
なんとなく過去を回想してから、ふと不思議に思う。
そんなに容易く人事を操れるのならば、不穏分子でしかない私なんて、とっとと飛ばしてしまえば気が楽だろうに。
けれどすぐに、優しい人だもんね、と納得する。
女嫌いとはいえ、理不尽を許す人じゃない。左遷に足る理由がない間は、人事部に置いてくれるつもりなのだろう。
きっと私が女である限り、部長からすればできるだけ忌避したい存在であることは変わりないはずなのに。
それなのに、まさか、視察の同行までさせてくれるなんて。
「――さっちゃん?」
ふと、頭上からこちらを呼ぶ声が降ってきてハッとする。
顔を上げると、今出社したばかりらしい横山くんが、リュックを下ろしながらきょとりと丸まった瞳でこちらを見ていた。
「あ……お、おはよう」
「おはよ。どしたの、画面凝視しながら固まってたけど。変なメールでも来た?」
そう眉を顰めた横山くんに、首を振る。
「ううん! ちょっと考え事してて……」
「そう? 何か困ってるなら相談しなね」
慌てて誤魔化した私に、心配そうな顔を向けてくれる横山くん。
でも、言えるわけない。
東雲部長が怖いんです――なんて。